◆国同士が線を引くことに意味はない
マルティン・ルター通りやローザ・ルクセンブルク通りで夢想はなおも続き、彼女と違って山や森の生活に憧れるあの人が、結局、姿を現わすことはなかった。
〈森の中を散策していても、言葉が浮かんで来ない〉〈町はわたしの脳味噌の中そっくりで、店の看板に書かれた言葉が連想の波をたえず引き起こし、おしゃべり好きの通行人のぺらぺらがオペラになり〉〈言葉は本当は世界とは何の関係もないんだというしらじらとした妙に寂しい気持ち〉〈傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだ〉
そんな彼女のやせ我慢が、多くのモノや言葉に囲まれながら何一つ手に入らない都会人の孤独を浮かび上がらせて胸に迫り、秀逸だ。
「作物を育てている実感の中を生きている農村の真っ当さから切り離された都会人は、給料はここからもらう、トマトはあそこで買う、と生産の実感すらない。その何でもあって何もない虚しさの一方には町特有の楽しさもあって、常に揺らぎ、移ろう、町という運動体全体を小説ともつかない形でとらえようとした私は、線を引くことに何の意味があるのかと思うわけです。
そもそもフランスやドイツという国以前にパリやベルリンといった町が屹立し、点と点が緩やかに連携するのがヨーロッパの理想で、線と対立は何も産みません。