イギリスが香港を奪った経緯は、貿易赤字を解消するために中国にアヘンを売りつけ、当然の権利として怒った中国を戦争で屈服させるという、弁護の余地の無い非道な行為ではあった。しかし、その結果生まれた植民地支配が香港人という、中国民族のなかで台湾人と並んでもっとも民主的な人々を生み出したことも事実である。
このように歴史上の出来事はそのほとんどが功罪を持つものであって、一方的に悪いと決めつけられることはほとんど無い。一方的に決めつけるのでは無く、そうした功罪に留意することも歴史を見るコツの一つである。
ところが冒頭のような「ジャッキー・チェンはなぜジャッキー・チェンなのに……」などという設問を作ると必ずケチをつけてくる人々がいる。そうなったら歴史は変わってしまうからジャッキー・チェンが香港で生まれたとは限らないし、安倍晋三の父親は下関出身では無かったから、そもそも「シンゾー・アベ」が生まれた可能性もほとんど無い、などという批判である。
もちろん歴史のファクターはきわめて複雑だから、大きな部分で歴史が変われば小さな部分も大きく影響される。それはあたり前でありじゅうぶんにわかっている。しかし、私は多くの人間によりわかりやすく歴史を理解してもらいたいから、あえてそういう言い方をしているのだ。それをこんな言い方で批判するのは、まさに理不尽な言いがかりである。
こういうことを言う歴史学者に共通する欠点が「歴史if」を認めないことだ。「歴史if」おわかりだろう、「もしもあの時、歴史上の事実と違うことが起こっていたら、歴史はこう変わっていただろう」という推論のことだ。たとえば「関ヶ原の戦いで石田三成が勝っていたら、その後歴史はどう変わっていたか?」だ。
ところが、頭の固い歴史学者のなかには、実際に起こった事実だけをチェックすればいいのであって、そのような架空の情況を推論するのは無駄であり邪道であるとの考えの持ち主がまだまだいるようだ。だからこそ「歴史ifは認めない」とか「邪道だ」などと言う人間がいるようなのだが、正直言って私はそういう人々の頭の中身がまったく理解できない。