そんなことは「対岸の火事」だと思っている日本人が今でもきわめて多いのだが、ここで思い出してもらいたいのは、そのわずか四年後の1864年に長州藩が英米蘭仏の四カ国連合艦隊を相手に戦い、惨敗を喫した下関戦争の後始末の話である。あの時、列強を代表したイギリスは和平交渉で日本側に何を要求したか? 下関の沖合にある彦島の租借である。第二十一巻「幕末年代史編IV」で述べたように、高杉晋作が徹底的に抵抗したこともあって、イギリスは彦島を奪うのをあきらめた。
しかし、日本がその後、朱子学にこだわって清国のように自国の改革に失敗していれば、つまり明治維新が実現できなかったら、彦島だけでなく対岸の下関もイギリスの植民地となり1997年にようやく返還されましたということになったかもしれない。そうなれば、香港人と非常に情況のよく似た「下関人」がわれわれの歴史に存在していたかもしれないのだ。当然、下関人は英語名を持つことになる。
ところで安倍晋三首相の選挙区はご存じだろうか? じつは下関市周辺で彦島もそのなかに入っている。まかり間違えばシンゾー・アベの本名(日本名)が安倍晋三である、ということになったかもしれないのだ。
これで冒頭の「ジャッキー・チェンはなぜジャッキー・チェンなのに、安倍晋三はシンゾー・アベではないのか?」という問いが、歴史というものを考えるコツであるという意味がおわかりになったかと思う。
ついでに言っておけば「教育勅語は国民を戦争に駆り立てるもの」などと短絡的に断定する人間は、植民地支配についても「民族の独立を奪うきわめて悪質な行為」という評価しかできない。確かにそれが評価の大部分であることは事実である。しかし、ここであらためて香港人のことを考えてみよう。香港人はなぜ本土の中国人に比べはるかに人権を守り自由を尊重し民主主義を理解しているのか? それはイギリスの統治を受けたからだろう。