人間の世のなかの多くの部分は「推論」によって成り立っているということを、こういう人々はご存じないのかとすら思う。
たとえば海で溺れかかった人を救助した人間を警察や自治体が「人命救助」で表彰する場合、それは「もしもあなたが助けなければこの人間は死んでいたでしょう」という「推論」が前提になっている。
ではそこに「いや、その人が助けなくても自力で泳ぎ着いたかもしれないじゃないか」「救急隊が間に合っていた可能性もある」だから「もしも助けなければ溺れた人は死んでいたでしょう、という事実として確定してもいない推論で表彰するのはおかしい」などとケチをつけてきた連中がいたら、人はその連中を何と評するだろうか? 「頭がおかしい」であろう。「歴史ifは認めない」などと言う歴史学者はそれと同じである。
いかなる歴史学者でも、たとえば「幕末、井伊大老が開国を決断した」などという歴史上の事績に対して的確な評価をするためには、「もしも開国していなかったらどうなっていたか?」つまり「歴史if」を考えているはずなのだ。そうでなければ評価などできない。それゆえ「歴史ifは認めない」派の学者も、自分の専門分野では必ずそういう作業をしているはずだ。
つまりこういう人々は自分の仕事の分野ではあたり前のように推論を使いながら、人がそれを使うと「邪道だ」とか「けしからん」とか言い出すのである。あきれてものが言えないとは、このことだろう。
※週刊ポスト2017年6月30日号