対談当時の赤川さんは40歳になるかならないか、バリバリの流行作家である。
話は横道にそれるが、弟子時代の私の主な仕事のひとつに、事務所の来訪者などを記した日報を出張先の黒田にファクスするというものがあった(メールどころか携帯電話もない時代である)。ところがある日、黒田の宿泊先の東京都内のシティ・ホテルの回線がずっと使用中で日報が送れないことがあった。困ってホテルの人に電話して相談すると、
「赤川次郎先生の専用回線がございますから、そちらをご利用ください」
と、秘密のファクス番号を教えてもらえた。恐らく赤川さんは当時、そのホテルに執筆用の部屋を長期で借りていたのだろう。さすが流行作家ともなれば、あんな高いホテルに部屋借りて、専用回線まで引かせるんやな、偉いもんやな、と感心した。
赤川さんと黒田の対談のタイトルは《四一年目の八月一五日に》。対談は赤川さんがふだん疑問に思っていることを黒田にぶつけていく形で進行していく。なぜ日本は「敗戦」を「終戦」と言い換えたのか、なぜ新聞は戦争を止められなかったのか。赤川さんの先の戦争についての考え方がよくわかるところを引用する。
《赤川:(戦争を)したらあかんという考えのもとがどこにあるのかがはっきりしてないと、ぜんぜん戦争を知らない人間にとっては、したくないということだけ伝わってきて、なぜしたくないのかということまで伝わってこない。この間、テレビで映画『ガラスのうさぎ』を見ましたが、まじめにつくっていることはよくわかるし、また戦時下の民衆の悲劇というのも、頭ではわかるのですが、実際にああいう映画を見ていると、いい人ばかり出てきて、みんなかわいそうだ、ということになってしまっているような気がするんです。国民はみんなこういう人たちばかりだったのに、何で戦争をとめられなかったのだろうなという気がしてくる。/僕の目からみると、民衆の中にも自分たち自身を締めつけていく構造があったと思えてならないのです。
黒田:隣組があって、役員を決めて、ピラミッドができていく。
赤川:一面では、思想をお互いに見張っているみたいな、そういう役割も果たしていたのではないかと思うのですが、戦争中を描いたドラマには、そういう面は出てこないで、息子が戦死して悲しいとか、そういうことだけで戦争の悲劇を訴えようとする。戦後生まれの人間からみると、あれは負けたからいけないのであって、勝ってりゃよかったのかということになる。》
赤川さんは先の戦争責任は軍部や政府だけでなく、国民にもあると感じているのだろう。だから「戦争に巻き込まれた可哀想な日本の庶民」という構図に納得できない。そんな私たちだからこそ、再びの監視社会の到来ともいわれる「共謀罪」に激しく赤川さんは危機感を募らせる。「敗戦」を「終戦」と言い換えてしまうそんな私たちだからこそ、また同じ過ちをくり返すのではないかと抗議する。
読売新聞が前川喜平・前文部科学省次官の「出会い系バー」を記事にしたとき、ネットで「もし読売に黒田さんがまだいたら、あんな記事は出なかったはずだ」という書き込みを少なくない回数で読んだ。00年に亡くなった黒田の名前を覚えていてくれる人がいて、弟子(不肖の弟子だが)のひとりとして嬉しい。いま西の読売の黒田はおらず、東の読売で一環として弱者の立場に立った本田靖春さんもいない。流行作家の赤川さんも、新聞の投書欄でしか自分の意見が書けない……そんなことを寂しく思っていたのだが、「同時代を語る」の赤川さんの「あとがき」を読んで、いや、それは違うのではないか、と考えを改めた。