「あとがき」で赤川さんはこんなことを書いている。
《別に出世したいとは少しも思っていない、ごく当たり前のサラリーマンである、中学時代からの友人は、今、毎日帰宅が夜の一〇時過ぎだ。しかも、仕事を持ち帰って、それを片付けてから寝る。朝は七時ごろには起きて、満員電車で出勤していく。/土日の休みがあっても、野球大会があり、運動会があり、慰安旅行がある。/これで、やっと「普通のサラリーマン」でいられるのだ。/こういう友人が、選挙の日、くたびれて寝ていて、投票に行かなかったからといって、僕は、「社会意識が低い」と言う気にはとてもなれない。/改革の意識にしろ、市民運動にしろ、その低調さを嘆く前に、こういう「普通のサラリーマン」の実態を「分る」ことが大切だと思う。/現代のかかえる問題に、決して無関心ではないけれど、何かに参加するだけの余裕を持たない人々。──その「声」をすくい上げる方法を、何とか捜して行けないものだろうか。》
赤川さんが新聞の投書欄に書いているのは、作家として特別に用意される座布団を拒み、デモや集会に参加しない(できない)、「普通のサラリーマン」と同じ平場に立つことを自ら選んだからではないか。可哀想な庶民を装うのでなく、国民としてぎりぎりの責任を果たそうとして、新聞の投書欄という群衆の中から声を振り絞ることに意味を見いだしているのではないか。
わずか500字の投書が、凄みをもって私の前に立ち上がってきた。