2人は池袋に音楽喫茶「パラダイス」を開く。二階建ての大きな店で、ステージで歌を聴きながらコーヒーやカクテルを飲む、当時流行ったライブハウス形式の店だった。
京子によれば、店名はハワイアンの歌手で、一家と付き合いのあった灰田勝彦の歌のタイトルから取った。店にはハナ肇が通いつめ、ミッキー・カーチスや水原弘など、昭和の名歌手たちもアルバイトで歌いにきた。新宿の「アシベ会館」などと並び、草創期の昭和大衆歌謡をリードした店だった。
池袋の店が区画整理で閉められ、一家は新天地を求めて横浜に移った。当時、3歳だった余貴美子や妹の生活の面倒を見たのは、祖父や祖母の頼網好だった。食生活は完全に中華料理が中心だった。
「学校に持参するお弁当も日本人の子供とは違っていました。エビやチャーシューが入っていて豪華だったけど、ちょっと嫌でした(笑)。家では腸詰作りも手伝っていましたよ。ヘチマや今人気のパクチーも昔から食べていましたね」
一家は横浜駅西口近くにバーや焼き鳥屋を開き、京子が店を切り盛りし、鴻彰は経営を担った。京子目当てのお客も多く、「美人スタンドバー」という看板を出した時期もあったと、京子は笑う。
そんな「芸能」と近い世界で育った環境が、英語が得意だった余貴美子が一流商社に就職が決まりながら、父の反対を押し切って、あえて劇団員の道を選ばせた遠因なのかもしれない。