甲子園で活躍して校名を売る。そういうPLの前例に倣いたかったのだろうか。しかし、大東校舎にとって、PLは遥か彼方の存在だった。今中が入学するまで、大東校舎はPLに対し公式戦で9連敗していたという。
1年夏からベンチ入りし、その秋にはエース格に成長した今中は、同年の秋季大阪大会準々決勝PL戦に先発する。PLの1学年上に、後に中日ドラゴンズでチームメイトとなる立浪和義がいた。片岡篤史(元阪神)、野村弘樹(元横浜)らとともに翌1987年に春夏連覇を達成するPL最強世代である。
今中は5回に1失点したものの、強力打線を最少失点に抑え込む。だが、味方が初回の1安打だけに封じられ、0対1で惜敗した。
「あの試合でもし勝っていたら、PLの春夏連覇はなかった(笑)。この試合をスカウトが見てくれていて、無名の自分がプロに行けた。その点では、大きな意味のある試合でした」
今中が3年生だった1988年に大東校舎は分離独立して大阪桐蔭となった。1991年夏には選手権大会に初出場、初優勝を飾る(監督は長沢和雄)。しかし、PLに勝てない時代は続いた。1993年にコーチに就任した西谷は、「どうやったらPLに勝てるか。そればかりを考えていました」と振り返る。
全国から有望選手が集まるPLと比べれば、入学する選手のレベルからして差があった。それを埋めるべく、西谷は付き人制度を廃止。PLの1年生が先輩の世話に忙しい間に、大阪桐蔭の1年生には早朝から遅い時間まで猛練習を課した。