敷地内に置かれた日本軍速射砲には、巨大な蛙が飛び乗っていた。雨季の真っただ中である。降りしきる大粒の雨が、「英霊よこの地で安らかにお眠りください」の碑文に流れ込む。私にはそれが涙雨に思えた。
翌日、佐藤中将の31師が目指したコヒマの地に向かう。電子が世界を駆け巡るこの21世紀にあっても、インパールからコヒマに続く道は舗装道路一つなく、ただ一本の片面通行路があるだけ。両側に鬱蒼とした密林が繁る手つかずの山野を、延々と蛇行して車両は登って行く。
土砂崩れによる陥没に車輪を取られてトラックが派手に横転し、滑落寸前になっているのを二度見た。このあたりでは良くあること、と言ってア氏は莞爾と笑う。しかし車窓から下を見ると、数メートル違えば断崖絶壁の奈落である。
こんな人外魔境に、内地から駆り出されてきた兵士の想いは如何ばかりか。この悪路を、当時の日本軍は一人50kgの重装備を背負いながら全て徒歩で行軍した。その上さらに常時戦闘に備えるのだ。想像を絶する極限状態に私は身震いする。
コヒマは、標高2000mを超える高山都市で、雲の上の斜面に住宅や低層ビルが犇めく。大河と山岳と密林を徒歩で越えてきた31師はこのコヒマに肉薄し、一時は同地占領の寸前かに思えた。
だがその進撃は止まった。制空権がない。弾薬がない。そして僅かな携行食料は食べつくした。目標としていた天長節までの両都市占領は、英印軍の巧みな反撃に遭って一向に進まない。五月を過ぎると雨季に入る。貧弱な道路は冠水し身動きが取れない。マラリアや赤痢に陥る日本兵が続出した。戦後の述懐によると、牟田口が作戦の失敗を悟ったのは4月末という。にも拘らず、牟田口は安全地帯から、前線に督戦電報を送り続けた。