インド平和記念碑で献花する筆者
作戦は、1944年3月に開始され、同年4月29日の天長節を目途に、英領東インドの拠点インパールと、その補給拠点コヒマを占領し、連合国の動揺を図ることにあった。作戦遂行の手はずは次の通り。ビルマ北部の保養地・メイミョウに居る牟田口廉也を総司令官とし、三個師団で三方からインドに侵入する。
インパールを目指すのは、第15師団(山本正文中将)と第33師団(柳田元三中将)。北側のコヒマを目指すのは、第31師団(佐藤幸徳中将)。
ところが行軍は過酷であった。野砲、車両等は分解して道なき山岳を担がねばならず、荷馬として徴発した水牛は、第一の難所・チンドウィン川を渡河する際に半数が溺れ死んだという。物資の運搬に使用した牛を、現地に着き次第食料にするという奇案を牟田口は「ジンギスカン作戦」と自画自賛したが、初手からその構想は頓挫した。加えて増強された英印軍はその制空権を掌中に収め、落下傘補給で友軍に万全の補給体制を敷く。
一方、日本軍は携行食料と現地調達しか補給の当てはない。土台成功の見込み皆無の無意味な作戦に、10万の日本兵が従事させられたのだ。
◆佐藤中将の独断撤退
ア氏のガイドの元、インパール市郊外で戦後に建立された慰霊碑にて献花する。この地方特有の赤土がむき出しになった丘陵は、柳田師団(33師)と英軍が激戦を交えた丘で、英軍はレッドヒル、日本軍は2926高地と呼んだ。この丘の入口に、戦没者慰霊碑がある。
誰に言われずとも毎日慰霊碑の清掃をしているという地元の古老は、1ルピーの対価を求めるでもなく、参拝者手帳に私の名を記帳しろという。