薩長藩閥が権勢を拡大した明治の日本。歴史家・八柏龍紀氏は「賊軍として長く不遇をかこちながらも、官軍権力への反骨精神をバネに近代日本の礎を築いてきた人々がいたことを忘れてはならない」と指摘する。ここでは小村寿太郎を紹介する。
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封建的身分制に埋没していた古い日本に「文明開化」という曙光が浴びせられ、近代的な教育制度が導入されて四民平等の明るい国になった多くの日本人は明治維新にこんなイメージを抱いているはずだ。
だがそれは正しくない。維新の原動力となった薩長藩閥勢力が「勝ち組」として顕官や要職を独占したのが明治国家の実態であり、賊軍とされた東北諸藩や規模の小さい藩の出身者は「負け組」としてほとんど出世の糸口がつかめない「格差社会」だった。
日向国飫肥藩(現宮崎県日南市)の下級藩士小村家の長男として生まれた小村寿太郎も本来は「負け組」の一人だった。地味な小藩出身の上、身長は150cmに満たず貧相な顔をしており、見た目でも多くのハンデを抱えていた。
だが小村は幼い頃から勉学に励み、明治3年に藩の貢進生(奨学生)として大学南校(東京大学の前身)に入学した。さらに第一回の文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学で法律を学び、帰国後は司法省を経て外務省に入省。外務大臣として辣腕を振るった陸奥宗光に認められ、外交官として華々しい出世街道を歩んだ。
その容姿から、他国の外交団からは「ねずみ公使」(ラット・ミニスター)と蔑まれたばかりか、同僚からも「小村チュー公」と呼ばれたが、そんな小村を一躍有名にしたのが日露戦争後のポーツマス会議だった。