「大石は資金力にものを言わせて他団体にも金を貸し付け、手足を縛ってきた。六代目体制を築くにあたり、若頭の高山清司は大石の資金力を頼り、大石が金を貸している大阪や九州のライバル組織を抑え込んできたのです。だから大石は顧問に退いても重要な役回りを担ってきたといえます」
“山口組芸能部長”の異名を持つ。大石は芸能界に太いパイプを築いてきた。私も何度か会ったことがあるが、初対面のときの言葉が印象に残っている。
「私と健さんは歳も近く、親しくさせてもらいました。私の息子が若くしてアメリカで亡くなり、それをずい分気にかけてくれていましてね。息子の命日になると、わざわざ東京から岡山へ焼香にやって来てくれるようになりました。事前に電話一本もなく、付き人も連れず、一人で東京から岡山までポルシェを運転してフラリと訪ねて来ましてね。そこまでしてくれる芸能人なんてほかに誰もいません」
言うまでもなく健さんとは高倉健のことだ。二人の関係については、8月29日刊行予定の『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』(講談社)に詳しく描いているが、そこに紹介しきれなかったエピソードもある。
「親分は健さんとの交友が自慢でした。有名な恒例の善光寺参りにも誘われていました。さすがに人目を気にし、一緒に寺に参拝することはなかったけど、毎年のように行っていました」
大石の側近がそう明かした。
「東日本大震災のとき親分はすでに岡山から東京のマンションに移り住んでいましたが、そこにも『大丈夫でしたか』と陣中見舞いに訪ねてきました。駐車場から健さんの電話があって、親分が『お前らは来んでええ』いうて部屋を出て、どこかで二人で話をして戻ってきたことがありました」
※週刊ポスト2017年9月1日号