明治から戦前まで内地の官立の医学部は、旧7帝大と旧官立6医科大学を合わせて13校だった。そのうち8校が西日本(長崎、熊本、福岡、岡山、大阪、京都、金沢、名古屋)にあり、東日本は新潟、東京、千葉、仙台、札幌の5校のみ。大きな格差が見られる。
◆途絶えた「藩の人材育成」
こうした医学部偏在の理由を解く鍵は、幕藩体制下の教育研究機関「藩校」にある。江戸期に最先端の研究を担っていたのは藩校だった。各藩はそこで西洋医学や工学を取り入れながら、独自の軍事力を磨くとともに人材育成システムを構築したのである。
歴史が古い九州地方の医学部(長崎大、鹿児島大、熊本大など)は藩医学校や旧幕府の長崎医学所が前身である。江戸期より医学に力を入れていた藩校は、明治以降も地域の中核医学部として発展していった。一方、戊辰戦争の戦後処理により、佐幕派の関東・東北勢らは武装解除させられた。同時に、それらが運営していた藩校は人材育成システムもろとも潰されてしまったのである。
旧幕府側として戦に参加した奥羽会津藩には「日新館」という全国有数の藩校があり、その中には「医学寮」もあった。しかし戊辰戦争で焼失し、その後、再建されることはなかった。
また、幕末に老中首座を務めた堀田正睦の下総佐倉藩は、蘭方医・佐藤泰然を江戸から招いて医学塾「順天堂」を開設させた。当時は「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われるほど盛んだったが、戊辰戦争後、移転している(順天堂は明治政府により東京へ移転され、現在の順天堂大学の前身となった。順天堂2代目佐藤尚中は明治政府に用いられ、東京大学医学部の前身の大学東校の初代校長を務めた)。