2017年3月、突如現役引退を発表。6月には第2の人生として、同社のアメリカンフットボール部「富士通フロンティアーズ」のマネジャーに転身したことを明らかにした。28才での引退には、「早すぎる」と、惜しむ声が相次いだが、柏原本人は引退後のインタビューで、その胸の内をこう明かしている。
「周囲からは、かなり悩んでから引退を決断したと勘違いされがちですが、『昨季(2016年)の1年でけがをしたら、結果が出なかったらやめよう』という思いでやっていたので、ずるずると競技生活への未練を引っ張ることはなかったですね。自分の中では、東京五輪を目指すことよりも、引退後の人生の方に気持ちが向いていたんです。今は、競技者としての経験を、会社にどう還元するか、日々考えています」
“後悔なき引退”だったことを強調した。
◆箱根で活躍するとスポンサーが近づいてくる
期待されながらも、大成することなく引退に追い込まれた箱根のスターは柏原だけではない。“箱根史上最高のランナー”との呼び声高い、渡辺康幸(現・住友電工陸上競技部監督)は、早大4年時(1996年)には各校のエースが集まる“花の2区”で、9番手でタスキを受け、8人をぶち抜いてトップに立つなど、いくつもの伝説を残した。卒業後は鳴り物入りでヱスビー食品に入社したが、計7度のアキレス腱の故障の影響で、五輪でのメダルを期待されながらも思うような成績を残せなかった。
三代直樹は順天堂大4年時(1999年)、不滅の記録といわれた渡辺康幸の2区の区間記録を2秒更新し、順天堂大の総合優勝の立役者となった。富士通入社後は、2003年の東京国際マラソンで4位に入賞したものの、坐骨神経痛などに苦しみ2008年に引退を余儀なくされた。
今を時めく青学大の黎明期。エースとして支えた出岐雄大は4年時(2011年)に“花の2区”で11人抜きの激走を見せて、後の王者となる礎を築いた。出岐は中国電力に入社して、リオ五輪出場を目指したが、25才の若さで競技生活から離れている。
将来を嘱望された彼らが、マラソン選手として大成できなかった理由の1つに“箱根駅伝という甘い蜜”があるという。
法政大時代、トレードマークのサングラスからビジュアル系ランナーとして注目を浴びた徳本一善氏(現・駿河台大駅伝部監督)が言う。