これは後付けの説明ですが、当時、子供心に面白いと思った理由はいろいろあります。坪内逍遙の訳によって言葉の豊かさ、日本語の豊富さを知ったというのがそのひとつ。芝居の台詞ゆえに、やや卑猥なものも含め俗な言葉もあれば、格調の高い響きのいい言葉もある。私の印象では、逍遙の訳は、初めは歌舞伎調だったのが、次第に新劇調に変わっていきます。また、台詞というものは、自分の感情を吐露するものもあれば、感情を離れて意見を述べるものもあれば、状態を説明するものもある。特にシェイクスピアの場合はそのバリエーションが豊かなんですね。
私はシェイクスピアを読んでから、言葉が実際に人間を動かす経験もしました。『ヘンリー四世』の中に、フォルスタッフという大酒飲みのデブで喜劇的な男が出てきて、ヘンリー四世が「おまえは臓物の袋だ」とからかうんですね。私はそれを面白がって、ある友だちと喧嘩になったとき、「何だ、この野郎、臓物の袋め」と言ってみたんです。そうしたら、シェイクスピアを知らないのに、奴は怒ったんですよ(笑)。言葉が喧嘩の道具になることを知ったのです。
また、人間にキャラクターがあるということも知りました。ご存じのように、シェイクスピアの作品にはハムレット、フォルスタッフなど、人間のひとつのタイプと言えるような、輪郭のはっきりした人物が何人も何人も出てくる。これは本当に楽しかったですね。
後に私は芝居書きになりましたが、そのことと少年時代のシェイクスピア体験に直接の関係はありません。しかし、今にして思えば、意識の下にはずっとシェイクスピアがいて、私の骨肉に染みこんでいたのでしょう。