留学当初、私の英語力が乏しく、現地の先生とコミュニケーションを深く取れなかったというのも一因でもあると思うが、思い返してみると、現地の友人が先生に勉強の質問以外で頼っている姿をあまり見たことはない。教師は「ネイルを塗るな」、「髪を染めるな」という校則や、授業態度を注意するが、子供の問題に自ら首を突っ込んでいたという記憶がない。
クールな先生が多かったので、留学生である私を心配して手取り足取り面倒見る、ということはなかった。私が一人でランチを食べていても、心配はしない。誰か生徒を捕まえて、「新入生の面倒見てあげて」とサポートするわけでもない。
もちろん、仲良くなった親身な教師もいるが、ディープな悩みを打ち明けた記憶はない。先生に話しても困るだろうし、悩みは日本に暮らす親や、周りの友人に相談していた。心のどこかで「先生は友達じゃないんだから」という一線を引く、心理があったのかもしれない。
そんな、塩対応な教師に対し、現地の生徒は敬意を払っていた。ネックレスや指輪をして校則を破ることはあっても、教師に注意されるとすぐに外した。日本人の同級生がこのやり取りを見て「反抗しないで言うこと聞くのが不思議」と呟いたのが印象的だった。おそらく、先生と生徒が“クールな関係”と割り切っているのだ。
◆先生は「お金をもらって勉強を教える人」という認識
確かに、若槻千夏が発言したように、クールな先生が感情ではなく“ビジネス”として生徒に接することは、金八先生を見てきた世代としては、「寂しい」と思えるかもしれない。しかし、「授業を受ける気がないなら、学校から去りなさい」というスタイルに、生徒だった私は「寂しい」と思ったことはない。「授業を受けなかったら、本人の責任」「宿題をやらなければ居残り」「ルールに従えないのであれば退学」という学校に、疑問を抱いたことはない。
これは、あくまでも私が通っていた海外の私立中・高校の話であり、公立の学校や他校では違った環境だったのかもしれない。もちろん教師の性格によって生徒の接し方は異なるだろう。
ただ、親による教師に対しての“期待”がプレッシャーになり、本来の業務に支障があるならば、本末転倒だ。「教師=子供を更生してくれる人」という考えではなく、私が体験したオーストラリアでの「お金をもらって勉強を教えてくれる人」と保護者や生徒が割り切れば、教師の負担が減り、教師不足という問題は解決の方向に向くのではないだろうか。
◆人対人の仕事は見えない部分が多い