◆「最近は民主活動をやっていない」
──著書刊行から1年5ヶ月後。顔伯鈞との再会の舞台は、最初に会った場所でもあるバンコクの中華街ヤワラートにある、築50年ぐらいは経っていそうなレトロな華人経営の宿だった。
南国での長い暮らしのせいか、彼がまとう雰囲気は以前よりマイルドになっている。親しみやすくなった反面、中国国内の反体制主義者に特有のピリピリした緊張感がやや薄れ、元官僚らしい言動の怜悧な切れ味も鈍っているように思えた。
「現在の目標か……。タイに来てすぐのころは、公盟の組織を再建して海外から中国国内の仲間を助けたいと思っていた。その後も海外の中国民主化運動に積極的に関わろうとしてきたし、その思いは現在も失わないでおきたい。だが、私も中年になってしまった。やはり疲れるし、できないこともある」
日本で出版された彼の逃亡記は、波乱万丈の末にバンコクに到着してハッピーエンドを迎えたはずだった。だが、顔伯鈞の人生はもちろん亡命後も続いている。バンコクの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に難民申請を許可され、不安定な身分こそある程度は解消されたが、かといって憂いなき暮らしを送っているわけでもない。
「身辺のあらゆる状況は困難なものになっている。中国国内の環境はもちろん、タイ国内の問題も、亡命中国人たちとの人間関係もだ。経済的な問題もそうだね。さまざまな事情があって、最近は民主化運動をあまりやっていないし、文章も書いていない」
◆亡命民主活動家の潜伏生活
「いまの職場に案内するよ。それから、再会を祝して食事をしよう」──そう話す彼と外に出る。季節は11月だが外は相変わらず蒸し暑い。
両脇の家の間隔が狭く自動車が入り込めないヤワラートの裏路地は、樹木が繁茂しており昼間でも薄暗かった。そんな路地を何本か抜けると、駐車場付きの古い雑居ビルがあった。顔伯鈞が駐車場番の老人に声をかけ、何かを尋ねている。住所を隠して暮らす身ゆえに、自分の職場のビルの番人に郵便物を預かってもらっているらしい。
顔伯鈞に連れられるまま雑居ビル内に足を踏み入れると、「耀華力診所」と中国語とタイ語の看板を出す小さな中医(中国医学)の診療所に着いた。