今年6月、仁王校長は他の教師からの報告で、被害教員の尻にできたみみず腫れを確認しているが、市の教育委員会には教員間の“トラブル”と報告していたという。いじめではなく、教員同士のトラブルと判断したということは、当初、被害教員にも何らかの非があるのでは、と思っていたのではないかと推測できる。置かれた環境、人間関係、思い込みなど、様々な事が絡み合ういじめやハラスメントの問題では被害者非難が生じやすい。
もう1つは「曖昧性忌避」だ。会見で校長は「被害教員に対するハラスメントについて、その行為を掴んだのは7月初旬でした」と釈明している。そして「ハラスメント行為に対する認識が甘かった」と述べた。今回のいじめだけでなく、いじめやハラスメントなどの問題や事件が表沙汰になる度に、会見を開いて釈明する人々の多くが問題に対する認識の甘さを口にしてきた。
人には曖昧さを嫌い避ける傾向があり、特にネガティブな事柄に対して、この傾向が強くなると言われている。いじめと悪ふざけ、パワハラと指導、虐待と躾。一つの事柄でも、被害者と加害者では捉え方が大きく異なり、これらの間には明らかに線引きできることもあれば、できないこともある。そのため、当事者同士の話が一致せず、目撃者の証言がバラバラになったりする。客観性に乏しいと感じれば尚更、曖昧な状況での判断には不安がつきまとい踏み込みにくくなる。主観的には認識していても、客観的事実を掴み確実性が担保されるまで、今回のように客観的判断は棚上げされてしまうのだ。責任ある立場にいれば、問題を明るみにしたくはないという自己保身も働くだろう。
同じようなことは、どこでも起きうる。問題が食い止められず、解決できないのであれば、それは加害者だけでなく、判断を下すべき人の問題でもあるだろう。