「野田線(現在の東武アーバンパークライン)を柏(千葉県柏市)まで行くと、アニメショップがあるんです。毎週通いました」
つまりAさんはオタクだ。それも中学時代のバブル期からずっとオタク。Aさんはオタク趣味と自慰(いまでも一日何回もするという)にハマってしまい、地元私立の単願が精一杯でそのまま進学した。
「高校はパソコン部。スポーツが強い学校だったので日陰者ですね。それでも高校時代は心を入れ替えて勉強しましたよ。受験にも熱心な高校だったので、環境はよかったです。ただマンモス校なんで落ちぶれた連中も多くて、連中は校内でギャングのようにカツアゲや暴力を繰り返してました。うちはスポーツも勉強もだめになったら居場所ないですもん。ほとんどは高3までに中退していきました」
Aさんのお父さんは大手電機メーカーのサラリーマンだった。部長や子会社の役員を勤め上げ、定年退職した。
「家は裕福でした。いまも親は年金で悠々自適です。中学のころから20万円するベータのビデオデッキや40万円するゲームパソコン、20万円のコンポが自分の部屋にありました。テレビマンガやファミコンが関の山の友達がいつも遊びに来てましたよ」
父親の会社の社員割で安く揃えられたとAさんは言うが、バブル期の当時、ビデオ、パソコン、コンポは中高生の憧れだった。その大部分のメーカーが今や存在しないか事業をやめている。Aさんのお父さんの会社も合併して名前が変わった。
「大学はストレートで某工業大学に入りました。ねえ日野さん、当時で大学ストレートって、どこであろうと凄い時代でしたよね」
Aさんに同意を求められて、私はとりあえずうなずいた。確かに、団塊ジュニアの大学受験は戦争だった。1990年入試の志願者数をみると、国士舘大学では前年より51%増、亜細亜大学で前年比31%増、立正大学は東京ドームを連日貸し切りで受験会場とした。ある地方私立大学は他地域からの受験者急増に戸惑い、入学辞退を予想して水増し合格させた結果、新入生が定員の約12倍に膨らみ、対応するために体育館を席数1000超の講義室に改造、慌てて塾講師や会社員を教員として迎え入れ文部省(現・文部科学省)から運営調査を受けた。大学の数も、大学の定員も少ないのに団塊ジュニアの数は膨大で、いまでいうFランク大学(全入大学)など存在しなかった。こぼれ落ちた者目当てに専門学校や予備校、外国に本校があるという触れ込みの謎の学校が乱立したのもこのころである。