当時のアイヌへの差別の一端を示すエピソードである。強制的に対雁に連れて来られたのに、「陛下の赤子」とされることを樺太アイヌたちはどのように思ったのだろうか。
そして1945年の日本の敗戦。樺太全島がソ連によって占領されると、樺太アイヌは着の身着のまま北海道へと追われる。道内をあちこち渡り歩いた末に、彼らが移り住んだ先のひとつが、先に訪ねた稚咲内だったのだ。
ここで樺太アイヌは半農半漁の生活をしながら処女地開拓に従事。鰊が不漁になると和人(日本人)の大半は出て行ったが、樺太アイヌはそれでも留まった。故郷に近いこの場所を離れたくなかったからだという。
その樺太アイヌの団体である「樺太アイヌ協会」は、アイヌ新法に反対している。それを知って会長の田澤守さんに札幌で会うことにした。だが、会うなり田澤さんからは、どういう趣旨での取材なのか、樺太アイヌの歴史をどれほど知っているのかと逆質問を受けるばかり。それには理由があった。
「これまでいろんなメディアの取材を受けましたが、残念ながら私たちの主張をきちんと伝えてはくれなかったからです」
法案が国会で可決する前の昨年2月、田澤さんが発表した声明書にはこうある。
《私達、樺太アイヌ(エンチウ)はアイヌ新法案の作成過程から排除されてきました。新法案の中身にも樺太アイヌを対象としたものがありません。(中略)新法においては、北海道アイヌのみならず樺太アイヌ、千島アイヌにも先住民族としての権利を認め、各々のアイヌ集団が現在の北海道、樺太、千島の植民地化以前に享受していた主権(先住権、自己決定権等)の回復を保障し明記することを求めます》
アイヌ新法に向けた有識者懇談会のメンバーに北海道アイヌの代表は入っていたが、樺太アイヌには意見を求める機会すら与えられなかった。
「アイヌ新法の良し悪しを判断する以前に、私たちは対象にすらされていないのです」
田澤さんが続ける。
「私たちが先住民族としての権利を取り戻したいと主張すると『今の時代に昔のようなサケを捕まえ、山菜を採る生活なんてできるのか』と言う人もいます。しかし、どうするかも含めて私たちに決定権を委ねるべきです。もともと北海道や樺太にいたのは私たち先住民族です。もとのような環境を取り戻したいだけなのです」
先住民族として権利、いわゆる先住権には、先祖代々使ってきた土地や資源などを自由に利用する権利があるが、それらは現代においては実際に行使するのは難しいとする研究者もいる。それぞれの土地には現在の所有者がおり、その財産権が認められているからだ。先住権を認めれば、混乱を招くことにならないか。そう尋ねると、田澤さんは「それは和人の論理です」と反論する。