先住民族の主権を全く無視したこの条約によって、樺太アイヌはロシア国籍を取って樺太にとどまるか、樺太を去るかの二者択一を余儀なくされる。当時、2400人ほどいた樺太アイヌのうち、漁業を通じて日本との関わりが深かった841人が対岸である北海道北部の宗谷地方へと移り住んだ。さらに、翌年には札幌に近い、現在の江別市対雁(えべつし・ついしかり)に強制移住させられ、それまでの生業だった漁業ではなく農耕に従事するよう強いられたのだ。
《樺太移住旧土人先祖之墓》
対雁の市営墓地を、雪をかき分けて進むと、高さ2mを超える墓石が立っていた。慣れない環境で相次いで亡くなった樺太アイヌの慰霊のための墓だ。1931年(昭和6年)建立。かつてアイヌのことを「旧土人」という差別的な用語で呼んでいたのである。
北海道への移住から10年後の1886年、天然痘やコレラが流行すると、免疫のなかった樺太アイヌは、たった7か月間で300人以上が亡くなったという。
そんな過酷な暮らしゆえだろう。日露戦争の勝利によって日本が樺太南部を領有することになると、樺太アイヌは一斉に帰郷を望み、339人が樺太へと向かった。北海道に残ったのはわずか十数人ほどというから、移住後の後わずかな期間で半数以下に減ったことになる。
◆「土人じゃとて日本の臣民じゃ!陛下の赤子じゃ!」
そうした経緯を詳しく描いたのが『熱源』だ。作品の主人公のひとりは、実在した樺太アイヌの山辺安之助(アイヌ名はヤヨマネクフ)である。山辺は後に『あいぬ物語』という自伝を遺した。そのなかで西郷隆盛の弟で、開拓使長官だった西郷従道(つぐみち)が対雁を訪れた際の出来事を語っている。
樺太アイヌと酒を酌み交わしているうちに、西郷は彼らの輪に入り、一緒に踊り始めた。すると、同行した大佐が「閣下」とこう言い出した。
「どうしてこんな土人風情のものと一所になって踊ったり跳ねたり酒を呑んで狂い廻るというような事をなされますか?」
西郷はこう答えた。
「何を汝は云うんだ。土人と一所に踊るのは、悪いというのか? そんな訳は無いじゃろう。土人じゃとて日本の臣民じゃ! 陛下の赤子じゃ!」