先の内藤氏に始まって、疎開先の山形で空襲に遭い、親戚も頼れずに上京、幼い弟妹と上野の地下道で暮らした過去を夫にすら言えなかったという金子トミさん(88歳)。また学童疎開中に深川の自宅が焼け、両親の迎えを疎開先で待ち続けた麻布自動車創業者・渡辺喜太郎氏(84歳)や、引揚中に母を失い、実名すら知らずに生きてきた瀬川陽子さん。〈靖国の遺児〉から一転、原爆に何もかもを奪われた面家敏之さん(86歳)など、中村氏に思いを託すように重い口を開いた元孤児たちの言葉は、国の復興とは逆行するように孤立を深めた人のものだけに切ない。
例えば女手一つで育ててくれた母親を空襲で亡くし、親戚の家を出て駅を転々とする中、視力や親友や多くのものを失った小倉勇さん(86歳)は言う。〈なんでお前は生まれてきたんだ、なんでわしらがお前を見なきゃならんのやと、しょっちゅう言われて〉〈もちろん食べ物には飢えていた、着るものもなくて毎日寒かった。だけど本当にほしかったのはぬくもりなんですよ〉
◆路上生活も自己責任にする時代
「実は私が今回、皆さんにしつこいくらい訊いたのが、駅の子や戦争孤児の多くがなぜ親戚の家や施設を逃げ出してしまうのか、でした。それこそ『火垂るの墓』の兄・清太も、とりあえず雨露は凌げて食事も多少もらえる叔母の家を出て、幼い妹と路上生活を始める。
それを『なぜ?』と思うこと自体、何でも〈自己責任論〉にしたがる昨今の風潮に毒されていたのかもしれません。それが小倉さんたちと話すことで、彼らが何に傷つき、何と闘っていたのか、理解できるようになった。