そう話していた信川氏だが、選抜体重別は中止となり、一部で噂された66kg級だけの開催案もまた流れてしまった。
阿部が彗星の如く柔道界で頭角を現したのは神港学園の2年生だった2014年の講道館杯だ。ふてぶてしく相手に突進し、背負い投げや袖釣り込み腰といった大技でなぎ倒す。史上最年少で優勝し、続くグランドスラム・東京も制するインパクト抜群のデビューだった。
天理大出身の信川氏は当時、教え子の阿部も母校に出稽古に行かせていた。だが、阿部が進学先に選んだのは天理大ではなく日本体育大学。阿部はその理由を私のインタビューでこう答えている。
「ゼロからのスタートを望みました。関西に残れば、親も近くにいて、友人もすぐ周りにいます。どうしても甘えてしまいますよね。2020年は東京で五輪が開催されるし、東京という場所が自分自身を成長させてくれるし、いろいろ吸収できる」
2016年のリオ五輪以降の66kg級は阿部の独壇場だった。2017年にブダペストでの世界選手権で優勝すると、翌2018年バクー大会で2連覇。東京五輪に向けて阿部のライバルとなる選手は国内に見当たらなかった。丸山はその頃、大学2年の時に負った左ヒザ前十字靱帯断裂の影響で、代表レースで後れを取っていたのだ。
一二三の名は両親が「一歩一歩進め」という願いを込めて付けた。しかし、柔道家としては階段を一段、二段飛ばしで駆け上がり、日本柔道の顔となっていった。
◆4月5日は「運命の日」
阿部というニュースターの登場に、誰より強い危機感を抱いていたのは丸山の父・顕志氏だった。
「阿部選手には天性の、特別な才能がある。あの筋肉の柔らかさと破壊力は化け物ですもん。独走を許したら、誰も止められなくなる。私も現役時代、古賀稔彦というスターを側で見ていましたが、阿部選手のスター性は古賀以上かもしれない」
バルセロナ五輪65㎏級代表だった顕志氏は、自身の果たせなかった五輪金メダルの夢をふたりの息子に託し、幼少期からスパルタ教育を施した。
「『お前たちはお父さんが獲れなかった金メダルを獲るために生まれてきたんだ』と洗脳してきました(笑)。私は昭和の男で、指導方針も古風。息子をぶっ叩きましたし、引きずり回しもした」