次男である城志郎の名は、「お城のような武道館を築ける男に」という願いを込めて付けた。
息子が中学生の頃、試合中に攻めあぐね、「指導」を奪われて敗れる試合が続いたことがあった。息子に「お前の柔道には心がない」と叱咤し、試合には「城士郎」の名で出場させた。さすがに戸籍を変更することはなかったが、当時の賞状やトロフィーには「心」のない息子の名が並んでいる。
2015年の講道館杯で丸山は阿部と初対決して勝利するも、翌年の選抜体重別では敗れた。
「その時も指導を奪われて負けた。投げられて負けたならまだしも反則のポイントで敗れてしまった。それが私には許せず、絶縁した」
昨年の世界選手権直前まで、師弟の断絶は3年半も続いた。その間、顕志氏は息子の結納にも顔を出さなかった。
顕志氏と復縁し、世界王者となって、丸山は代表レースで阿部を逆転。昨年11月のグランドスラム・大阪で優勝すれば代表が内定する立場だった。ところが、決勝で阿部に支え釣り込み足で投げられ、内定は持ち越しに。
さらに、今年2月のグランドスラム・デュッセルドルフは、直前の練習中に古傷である左ヒザの靱帯を損傷して欠場。阿部がこの大会を女子52kg級の妹・詩と共に制したことで両者の立場は、完全に横並びとなった。大会後、阿部は言った。
「自分のやることはひとつしかない。(選抜体重別で)圧倒的な柔道をして、優勝を目指したい」
追いつかれた丸山を見守る顕志氏は、最終決戦が予定されていた4月5日という日に、特別な“運命”を感じていた。28年前のこの日、顕志氏は講道館杯で優勝し、バルセロナ五輪の代表に決まったのだ。さらに、長男の誕生日でもある。
「この運命には鳥肌が立つ。城志郎の五輪代表は確信していました。ところが、ここに来て今のままでは“やばい”と思っています。あいつの精神状態が手に取るように私には分かる。ですから、明日は天理大の練習に行って息子をぶっ叩こうと思っています」