「ジャニーさんはどんどんアイディアが浮かんでくるので、公演直前に演出や振付を変えることもよくありました。でも、何を要求しても、少年隊は必ず応えていた。だから、信頼感があったのでしょうし、プロデューサーとしてすごく面白かったのだと思います」
東山紀之は自著で〈ジャニーさんほど芸に厳しい人もいない。実は、僕はジャニーさんにほめられた記憶がほとんどなく、叱られ通しで今日に至ったという感がある〉(『カワサキ・キッド』朝日新聞出版、2010年6月発行)と振り返っているが、それも期待の裏返しだったのだろう。
その証拠に、少年隊には何人もの一流の振付師が付いた。山田卓、西条満、名倉加代子、三浦亨、ボビー吉野など日本を代表する面々に加え、舞台『PLAYZONE』では1986年にマイケル・ピータース、1999年、2000年にトラヴィス・ペイン、2006年にヴィンセント・パターソンと、マイケル・ジャクソンの作品を手掛けた逸材とコラボレーションした。
「先生によって振付のテイストは違うので、普通は担当が変わると、対応に時間が掛かります。得意なダンスはすぐ覚えられても、苦手なダンスは思うようにはできない。でも、少年隊はどんな種類のダンスでも、すぐに習得してしまう。ボビーさんが1、2回お手本を見せただけで振付を覚えていました。半端ない早さなんです」(木野)
少年隊なら要求に応えられるという確信があったからこそ、ジャニー氏はマイケルの振付師を招聘したのだろう。そんな“歴代最強グループ”も、2006年7月の『想 SOH』を最後に新曲発売はなく、2008年に舞台『PLAYZONE』が終了して以降、ほとんど活動していない。『PLAYZONE』最終年、少年隊の今後を3人はこう述べていた。
〈死ぬまでやります〉(東山)
〈やめてくれって言われなければ〉(錦織)
〈少年隊というものを一番大事にして、また新しい形に作り上げていきたい〉(植草)(以上、2008年7月7日・日刊スポーツ)