チェッカーズ一覧

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チェッカーズ名曲を解禁の藤井フミヤ、恩師と“絶縁”真相を語る
チェッカーズ名曲を解禁の藤井フミヤ、恩師と“絶縁”真相を語る
 1992年のチェッカーズ解散後、デビュー曲の『ギザギザハートの子守唄』や『涙のリクエスト』を封印してきた藤井フミヤ(58才)。 3月27日に放送された、特別番組『激レア! 藤井フミヤ ギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)で29年ぶりに披露したのに続いて、現在、行っている全国ライブ『藤井フミヤ コンサートツアー 2020-2021“ACTION”』でも、熱唱してファンを喜ばせた。 これらの曲を作曲したのは、中森明菜の『少女A』、岩崎良美の『タッチ』など数々の名曲を生み出した有名作曲家・芹澤廣明氏。  チェッカーズ解散後もソロとしてヒット曲を連発し、定期的にライブも開催しているフミヤだが、芹澤氏の手掛けたチェッカーズ時代の曲を人前で歌うことはなかった。 その背景には、フミヤと芹澤氏の確執があると言われてきた。メンバーの高杢禎彦(58才)は2人の間に金銭問題があったと著書『チェッカーズ』の中で綴っている。 今回、芹澤氏の楽曲を解禁したのはなぜなのか。「昨年9月、フミヤさんから芹澤さんに連絡をしたんです。コロナで疲弊している人たちに元気を届けられるなら、と芹澤さんと話すことを決めたそうです」(テレビ局関係者) 真相についてフミヤを直撃した。紺色のキャップに紺色のパーカー、黒のスウェットパンツ姿で愛犬の散歩をしているところを声をかけた。──『ギザギザハート~』などをずっと封印していたのはなぜですか?「チェッカーズの曲をおれがひとりで歌って、それをビジネスにするのは抵抗があったんだよね……」──芹澤さんとは長年にわたる確執があったようですが。「確執とかじゃないですよ。当時、芹澤さんが作ったチェッカーズの曲のカバーを、レコード会社がこちらに挨拶もなしに作ろうとして、礼儀に反していると思っただけです。だから芹澤さんも『フミヤくんのせいじゃない』って、言ってくれました」──では、けんか別れしたわけではない?「そうだね。お会いしたとき、芹澤さんも『どんどん歌って』って言ってくれたし、これからも曲を書いてくださいっていう話もして」 4月15日発売の『女性セブン』では、「チェッカーズ復活と母との別れ」とのタイトルで、チェッカーズや亡き母へのフミヤの思いなどについて詳報している。
2021.04.14 16:00
NEWSポストセブン
ゴダイゴはいかにして日本の歌謡界を席巻したのか(1999年の再結成時。時事通信フォト)
日本の歌謡界を席巻した「昭和54年のゴダイゴ旋風」
 昭和の人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の再放送が、6月20日からCS・TBSチャンネル2で始まる。1回目は昭和55年12月25日放送分と発表された。この年、田原俊彦や松田聖子が台頭。アイドル黄金時代の幕開けとなった。その前年はニューミュージック全盛期であり、昭和50年結成のゴダイゴが突如大ブレイクを果たした。『ザ・ベストテン』(TBS系)に詳しいライターの岡野誠氏が“昭和54年のゴダイゴ”を振り返る。 * * *〈これがうまくいかなかったら解散しようと思ってました〉(平成17年12月8日・スポーツ報知) ゴダイゴは昭和51年のデビューシングルから英語詞にこだわっていたが、売上は低迷。1枚目の『僕のサラダガール』はオリコン37位になったが、それ以降は100位以内に入れなかった。昭和53年、ドラマ『西遊記』(日本テレビ系)の主題歌の依頼が舞い込む。冒頭の決意を滲ませていたタケカワユキヒデは、『ガンダーラ』でヒットを狙いに行った。〈曲は雄大な砂漠をイメージしました。最初はサビの部分をマイナー(短調)に、残りはメジャー(長調)にしたが、プロデューサーから「全部マイナーに」と言われた。2、3回書き直したかな。「ああ、歌謡曲になっちゃう」とも思ったけれど、抵抗はしなかった。英語と日本語の歌詞を作ったけど、「シングルは日本語で歌うよ」って受け入れた〉(平成25年5月15日付・朝日新聞) アメリカのバークリー音楽大学出身のミッキー吉野は編曲する時、細部にこだわった。〈ヒットソングのデータ/黄金律を全部集約させて「ガンダーラ」に注ぎ込みました。テンポや間奏の長さもアルバムとシングルは少し変えました。歌が始まる直前のスネアの叩き方まで指示するわけだから少し異常でしょ〉(平成27年10月発行『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』・シンコーミュージック) ミッキー吉野は発売時期やプロモーションも綿密に練り、曲が売れているうちに新譜を出した。昭和53年10月1日に『ガンダーラ』を発売した後、同年のクリスマスに『モンキー・マジック』をリリース。この作戦が的中して『ザ・ベストテン』で2月15日から4月5日まで8週連続で2曲同時ランクインし、“ゴダイゴ旋風”が巻き起こった。 その後も、4月1日『ビューティフル・ネーム』、6月1日『はるかな旅へ』、7月1日『銀河鉄道999』、10月1日『ホーリー&ブライト』と立て続けにシングルを切った。いずれも、まだ同番組で他の曲がランクインしている時に“二の矢”を放ったのだ。 アルバム『OUR DECADE』からのシングルカットである『はるかな旅へ』は圏外だったが、それ以外の3曲はいずれもベストテンに入り、『銀河鉄道999』は7週連続1位に輝いた。『ザ・ベストテン』の昭和54年のランクイン回数を算出してみると、“ゴダイゴの歌謡界席巻”が明確になる(1週2曲入れば、2カウント)。●昭和54年の『ザ・ベストテン』ランクイン回数と主な曲【1位】52回 ゴダイゴ 『ガンダーラ』『モンキー・マジック』他【2位タイ】42回 山口百恵 『いい日旅立ち』『美・サイレント』他【2位タイ】42回 西城秀樹 『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』『勇気があれば』他【4位】35回 サザンオールスターズ 『いとしのエリー』『C調言葉に御用心』他【5位】33回 ツイスト 『燃えろいい女』『性(サガ)』他【6位】26回 さだまさし 『関白宣言』『天までとどけ』他【7位】24回 ピンク・レディー 『カメレオン・アーミー『ジパング』他【8位】21回 沢田研二 『カサブランカ・ダンディ』『OH!ギャル』【9位】20回 アリス 『チャンピオン』『夢去りし街角』他【10位】19回 郷ひろみ 『マイレディー』『いつも心に太陽を』他 2位の山口百恵、西城秀樹を10回も引き離し、ゴダイゴが1位を獲得。51週で52回もランクインしている。『ザ・ベストテン』はレコード売上、ハガキリクエスト、ラジオチャート、有線放送を集計し、順位を決定する。1部門だけでなく、4部門で上位に残らなければランクインできない。ハードルの高い“総合チャート”を制した価値は高い。『ザ・ベストテン』は昭和53年11月16日に初めて視聴率30%を超え、翌年は51週中28週も30%台を記録する。世の必然として、大衆性を帯びると反発する層も出てくる。この頃、ランキングされても出演しない歌手が話題になった。しかし、ゴダイゴはその立場を取らなかった。〈当時はフォーク系の人たちがテレビに絶対出ないっていうのがあったから、逆をいかなければいけない、ボクらは出てやろうって、1本でも多く出てやろうって思いました〉(前掲『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』)『ガンダーラ』のレコードジャケットでは、メンバーがドラマ『西遊記』のキャラクターに扮し、テレビでも同じ格好で歌うなどメディア戦略を徹底し、大ヒットに結び付けた。 昭和54年のゴダイゴ旋風は、芸能史の中でも特筆すべきものがある。『ザ・ベストテン』12年分の年間ランクイン回数を算出し、順位を出してみよう(『』内は、該当年の主な曲)。●『ザ・ベストテン』年間ランクイン回数と主な曲【1位】53回 近藤真彦(昭和57年) 『ハイティーン・ブギ』『ふられてBANZAI』他【2位】52回 ゴダイゴ(昭和54年) 『ガンダーラ』『モンキー・マジック』他【3位】49回 沢田研二(昭和53年) 『ダーリング』『サムライ』他 ランキング発表週数は年によって若干異なるため、年間のランクイン確率(回数÷週数)を計算すると、こんな結果になる(小数点2位以下、同率の場合は3位以下を四捨五入)。●『ザ・ベストテン』年間ランクイン確率(回数÷週数)と主な曲【1位】101.96% ゴダイゴ 51週中52回(昭和54年) 『ガンダーラ』『モンキー・マジック』他【2位】101.92% 近藤真彦 52週中53回(昭和57年) 『ハイティーン・ブギ』『ふられてBANZAI』他【3位】100% Wink 39週中39回(平成元年) 『愛が止まらない』『淋しい熱帯魚』他【4位】98% 沢田研二 50週中49回(昭和53年) 『ダーリング』『サムライ』他【5位】94.1% 近藤真彦 51週中48回(昭和56年) 『ギンギラギンにさりげなく』『スニーカーぶる~す』他【6位】94% ピンク・レディー 50週中47回(昭和53年) 『UFO』『サウスポー』他【7位】90.4% チェッカーズ 52週中47回(昭和59年) 『涙のリクエスト』『星屑のステージ』他【8位タイ】90% 西城秀樹 50週中45回(昭和53年) 『ブルースカイブルー』『ブーツをぬいで朝食を』他【8位タイ】90% 山口百恵 50週中45回(昭和53年) 『プレイバックPart2』『絶体絶命』他【10位】88.5% 松田聖子 52週中46回(昭和58年) 『瞳はダイアモンド』『秘密の花園』他 番組は平成元年9月に終了したため、この年のランキング発表は39週。そのため、39回ランクインしたWinkが3位に登場する。100%を超えたのは、昭和54年のゴダイゴと昭和57年の近藤真彦の2組しかいない。今年5月、ゴダイゴのギタリスト・浅野孝已さんが亡くなったばかりだが、偉大な記録は、何年経っても輝き続けるだろう。■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記』(青弓社)では『ザ・ベストテン』の章も設け、巻末資料で公式本にもない年別ランキングデータを収録。6月7日、元CHA-CHA木野正人と配信イベント〈『ザ・ベストテン』と昭和ポップスの世界〉を開催(10日までアーカイブ配信。詳細はロフトプラスワンWESTのホームページにて)。
2020.06.06 16:00
NEWSポストセブン
東山が見せる””理想のジャニーズとは?(時事通信フォト)
デビュー35周年、「ジャニーズ最強」と評された少年隊の実力
 今年、デビュー35周年を迎える少年隊が復活する日は来るのだろうか──。錦織一清、植草克秀、東山紀之の少年隊は1985年12月、『仮面舞踏会』でデビュー。オリコン初登場1位を獲得し、当時の人気歌番組『ザ・ベストテン』(TBS系)でも6週連続1位に輝いた。その後も、『バラードのように眠れ』『ABC』などヒットを飛ばし続け、NHK紅白歌合戦にも8年連続出場した。 1962年のジャニーズ事務所創業以来、ジャニー喜多川氏は何組ものグループを育ててきたが、少年隊への力の入れ具合は格別だった。 デビュー前の約4年間、3か月に1度ほどのペースで海外に渡り、本場のエンターテイメントを学ばせた。ブロードウェイのミュージカルを何度も鑑賞し、マイケル・ジャクソンの『スリラー』の振付師であるマイケル・ピータースの1日8時間に及ぶダンスレッスンを受けさせたこともあった。 1980年に田原俊彦と近藤真彦がデビューしてジャニーズ事務所は再興したが、1984年にはチェッカーズや吉川晃司など、他事務所からアイドルが台頭。そんな状況下で、アクロバティックさとしなやかなさを兼ね備える少年隊が爆発的な人気を得て、事務所の勢いは増した。 2019年9月4日放送の『TOKIOカケル SP』(フジテレビ系)では、TOKIOの国分太一がジャニー氏に「最強のグループは?」と質問した際、「少年隊」と即答されたという秘話を明かした。5枚目のシングル『stripe blue』でバックダンサーを務め、ミュージカル『PLAYZONE ’87 TIME-19』にも出演した元CHA-CHAの木野正人が述懐する。「ジャニーさんはどんどんアイディアが浮かんでくるので、公演直前に演出や振付を変えることもよくありました。でも、何を要求しても、少年隊は必ず応えていた。だから、信頼感があったのでしょうし、プロデューサーとしてすごく面白かったのだと思います」 東山紀之は自著で〈ジャニーさんほど芸に厳しい人もいない。実は、僕はジャニーさんにほめられた記憶がほとんどなく、叱られ通しで今日に至ったという感がある〉(『カワサキ・キッド』朝日新聞出版、2010年6月発行)と振り返っているが、それも期待の裏返しだったのだろう。 その証拠に、少年隊には何人もの一流の振付師が付いた。山田卓、西条満、名倉加代子、三浦亨、ボビー吉野など日本を代表する面々に加え、舞台『PLAYZONE』では1986年にマイケル・ピータース、1999年、2000年にトラヴィス・ペイン、2006年にヴィンセント・パターソンと、マイケル・ジャクソンの作品を手掛けた逸材とコラボレーションした。「先生によって振付のテイストは違うので、普通は担当が変わると、対応に時間が掛かります。得意なダンスはすぐ覚えられても、苦手なダンスは思うようにはできない。でも、少年隊はどんな種類のダンスでも、すぐに習得してしまう。ボビーさんが1、2回お手本を見せただけで振付を覚えていました。半端ない早さなんです」(木野) 少年隊なら要求に応えられるという確信があったからこそ、ジャニー氏はマイケルの振付師を招聘したのだろう。そんな“歴代最強グループ”も、2006年7月の『想 SOH』を最後に新曲発売はなく、2008年に舞台『PLAYZONE』が終了して以降、ほとんど活動していない。『PLAYZONE』最終年、少年隊の今後を3人はこう述べていた。〈死ぬまでやります〉(東山)〈やめてくれって言われなければ〉(錦織)〈少年隊というものを一番大事にして、また新しい形に作り上げていきたい〉(植草)(以上、2008年7月7日・日刊スポーツ) 今から4年前、錦織は将来を想像して、こう話していた。〈腰の曲がった3人がなんとなくステップを踏んでいたらかっこいい。『おじいちゃんたちが踊るの!?』って子供たちをびっくりさせたい〉(2016年9月3日・サンケイスポーツ) 今も、グループは存続している。新型コロナウイルスの影響でライブなどは難しそうだが、デビュー35周年の今年、何らかの発信を3人で行なってくれることを願いたい。■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では、ジャニー喜多川氏の秘話も随所に掲載。4月30日19時から元CHA-CHA木野正人とネット配信トークイベント『1980年代 ジャニーズ名曲ヒストリー ~少年隊・東山紀之から貰ったシャケ・イクラ弁当~』を開催。詳細は下北沢本屋B&Bのホームページにて。
2020.04.26 16:00
NEWSポストセブン
聖子と明菜の1980年代頂上対決 作詞家が見た高次元バトル
聖子と明菜の1980年代頂上対決 作詞家が見た高次元バトル
 この4月でデビュー40周年を迎えた松田聖子(58)。昨年の紅白歌合戦でもメドレーを披露し、いまだトップクラスの存在として音楽シーンに君臨する彼女だが、1980年代に激しいライバル争いを繰り広げたのが中森明菜(54)だ。聖子と明菜は何が違ったのか? 今春、『1980年の松田聖子』(徳間書店)を上梓した芸能ノンフィクションライター・石田伸也氏が、歌詞を通じてライバル対決を読み解く。 * * * 80年代のアイドルシーンは、松田聖子と中森明菜による頂上対決が続いた。明菜のデビュー曲『スローモーション』(1982年)は最高位30位に終わり、2作目の巻き返しが必要だった。起用されたのはコピーライターから1年前に転身した作詞家・売野雅勇である。「参考にしたのは阿木燿子さんの一連の作品。例えば『プレイバックPart2』の“バカにしないでよ”のように、捨てゼリフが生きるんだと思った」「私は私よ関係ないわ」と叫ぶ『少女A』(1982年)である。明菜は自分のイニシャルと同じであることに激しく抵抗したが、ディレクターは明菜を強引にマイクの前に立たせ、ほぼ一発でレコーディングを完了させた。そして明菜にとっても、売野にとっても初めての大ヒットとなった。「明菜自身はバラードが好きだけど、本人が好きなものと、お客さんが求めているものは違うというのが『少女A』でわかったはず」 売野の感想である。実際、明菜は『少女A』が嫌いと公言しながら、セットリストから外すことはなかった。売野はさらに『1/2の神話』(1983年)、『禁区』(1983年)、『十戒(1984)』(1984年)で初期の明菜イメージを作った。河合奈保子や、チェッカーズ、荻野目洋子、堀ちえみなども手掛け、80年代のアイドル歌謡シーンに君臨する。そんな売野にとって明菜は、もっとも描きやすい歌手だった。「それは松田聖子という圧倒的な存在がいたから。彼女に対する対立概念として明菜に詞を書けば良かった」 売野の知るところでは、当時のアイドル歌手はほとんど聖子ファンばかりだった。明菜と同じく「82年組」と呼ばれた小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代は、そろって聖子ちゃんカットでデビューしている。そんな〝絶対アイドル〟の座は、作詞家・松本隆による功績と売野は思った。「ダイヤモンドみたいに、深い部分まで文句のつけようのない詞の世界。理想像としての女の子のかわいらしさを与えていた」 松田聖子の中にある「少女性」をうまく拡大して詞を描く。ならば明菜には「不良性」を与えたのが『少女A』である。売野にとって衝撃だった聖子ソングスは何か? そんな質問に、まず『赤いスイートピー』(1982年)、そして『風立ちぬ』(1981年)だったと答える。「アイドルなのに『タバコの匂いのシャツ』と生々しいフレーズを使い、しかし、それは大人への憧れとしてファンタジーに昇華させた珍しい例。また『風立ちぬ』は、詞とメロディーのマッチングが絶妙だった」 聖子と明菜だけでなく、クリエイターたちも高次元のバトルを展開したのだ。【プロフィール】いしだ・しんや/1961年、熊本県生まれ。「週刊アサヒ芸能」を中心に芸能ノンフィクションを執筆。主な著書に『ちあきなおみに会いたい。』(徳間文庫)、『甲斐バンド40周年 嵐の季節』(ぴあ)などがあり、最新刊『1980年の松田聖子』(徳間書店)が発売中。※週刊ポスト2020年4月24日号
2020.04.19 16:00
週刊ポスト
藤井フミヤ、“8人目のチェッカーズ”を脱退させた転売事件
藤井フミヤ、“8人目のチェッカーズ”を脱退させた転売事件
 1980年代中頃、有名人の写真を撮るために熱心に追いかけた彼らはいつしか「カメラ小僧」(カメコ)と呼ばれるようになった。まさに言い得て妙のネーミングだが、一体なぜそう呼ばれるようになったのか。カメコ歴40年のベテランが意外な真実を語る。「元々、カメラ小僧という言葉は単にカメラが趣味の若者が増えた際に作られた愛称です。我々は『追っかけ』とか、そんな風に呼ばれていた。でも藤井フミヤがテレビで『カメラ小僧』と呼んだことで、いつの間にかそれが普及したんです」 その背景には、あるカメコの存在があった。「チェッカーズが1983年にデビューした当時からずっと彼らを追いかけていたTという熱心なカメコ男性がいました。彼は人懐っこい人柄も幸いしてかメンバーにも気に入られて、移動中やプライベートショットを公認で撮らせてもらっていた。メンバーから“お前は8人目のチェッカーズだ”と言われるほどでしたが、Tはそんなメンバーを裏切ってしまった」 追っかけの資金作りのため、写真を他のファンに売ってしまったのだ。「ある時、空港の到着ロビーで出待ちをしていたTを見つけたフミヤが“写真、売っただろ!”と怒ったそうなんです。しかも翌日に出演した『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングで、タモリに『弟分みたいに可愛がっていたカメラ小僧に、変な写真を売られちゃったんです』と言ったんですよ。その時の言葉こそ、普及のきっかけだったのです」 そうして8人目のチェッカーズは“脱退”させられたという。◆取材・文/河合桃子※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.02.01 07:00
週刊ポスト
「男性アイドル=ジャニーズ」を決定づけた1980年の転機
「男性アイドル=ジャニーズ」を決定づけた1980年の転機
 今では「男性アイドル=ジャニーズ」という印象を持つ人は少なくない。それほどまでに、ジャニー喜多川氏(享年87)の功績は大きい。だがもし、ジャニー氏が『たのきんトリオ』の一員として、田原俊彦や近藤真彦をグループで歌手デビューさせていたら、芸能史は変わっていたかもしれない──。そんな芸能史の転機を、データとともに振り返ってみよう。 2019年12月30日放送の『輝く!日本レコード大賞』(TBS系)では『特別音楽文化賞』が新設され、ジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川氏が受賞。1980年代のVTRを中心に、過去のジャニーズ受賞歴がオンエアされた。31日の『NHK紅白歌合戦』ではジャニー氏の追悼企画としてSixTONESやSnow Man、美 少年、HiHi JetsなどのジャニーズJr.が特別出演。2019年7月9日に亡くなったジャニー氏の功績が称えられた。 ジャニーズ事務所が現在のように芸能界を席巻するようになった契機は、1979年10月26日開始のドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役に田原俊彦、近藤真彦、野村義男が抜擢されたことに始まる。 1975年に郷ひろみが移籍し、1978年にフォーリーブスが解散。1970年代後半、事務所は低迷していた。その窮地に現れた3人はドラマとともに人気が上昇。1980年3月28日の『金八先生』最終回は視聴率39.9%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を記録し、社会現象を巻き起こした。 その後3人は、5月からフジテレビ系の学園ドラマ『ただいま放課後』に出演。5月11日に行われた番組イベントで、3人の頭文字から取った『たのきん族』というニックネームが発表された。当時は公募から選んだと発表されていたが、のちにジャニー氏が自ら名付けたことを認めている。 その後、呼び名は『たのきんトリオ』として定着していき、3人はテレビ番組などで頻繁に共演していた。歌手としては6月21日に田原俊彦が『哀愁でいと』、12月12日に近藤真彦が『スニーカーぶる~す』でソロデビューを果たした。 1990年代以降、ジャニーズ事務所からのデビューはSMAP、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐などグループばかりになった。もし1980年に田原俊彦と近藤真彦がソロではなく、『たのきんトリオ』の一員として歌手デビューしていたら、現在のようにジャニーズ事務所が繁栄していたとは限らない。『ザ・ベストテン』(TBS系、1978~1989年放送)を例に考えてみよう。1980年代前半に毎週のように視聴率30%前後を叩き出し、多大な影響力を誇った同番組には、田原俊彦が1980年7月10日に初登場して以降、1983年7月14日までの156週連続で、田原か近藤のいずれかが登場した。3年間、ジャニーズ事務所の歌手が出続けたことで視聴者に絶大なインパクトを与えた。 2人のランクイン数を合わせると1980年が田原26、近藤1の計27回、1981年が近藤48、田原45の計93回、1982年が近藤53、田原41の計94回になる(*ランクインを1カウント。つまり、1週に2曲ランクインしていれば2カウント。そのため1982年の発表は52週だが、近藤は53回を数えた。これは『ザ・ベストテン』における年間最多ランクインの記録である)。 もし『たのきんトリオ』という1つのグループで歌手デビューしていたら、これほどのランクイン数の実現は不可能である。『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)など各局の歌番組にも、人気ソロ歌手が2人いたからこそ“ジャニーズ事務所の出演回数”を増やすことができた。 田原と近藤が頑張っている間に、ジャニー氏は次なるスターを育成。1981年にひかる一平、1982年にシブがき隊、1983年にイーグルス、乃生佳之と続々とデビューさせていく。野村義男は同年、THE GOOD Byeのメンバーとして『日本レコード大賞』の最優秀新人賞に輝いた。 当時は、現在のようなジャニーズ事務所の男性アイドルの寡占状態は形成されていなかった。1981年には、『金八先生』の第2シリーズで生徒の松浦悟役で人気を得た沖田浩之(スターダストプロモーション)、『ミスターCBSソニーオーディション’81』のグランプリを獲得した竹本孝之(サンミュージック)、『ただいま放課後』第3シリーズでメインの生徒役を務めた堤大二郎(山の手エージェンシー)などの強力なライバルが出現した。しかし、そうした新鋭たちの中で『ザ・ベストテン』にランクインしたのは沖田だけ(1981年に6回)。田原と近藤はライバルたちを退けていった。『ザ・ベストテン』におけるジャニーズ事務所の占有率の推移を見てみると、どのように芸能界を席巻していったかがよくわかる。 1978、79年の0%から田原と近藤のデビューで1980年に5.3%(小数点以下第2位を四捨五入。以下同)と上昇。1981年は18.2%、1982年にはシブがき隊のデビューもあり、22.1%と全体の4.5分の1を占めるまでに成長した。シブがき隊が『NAI・NAI 16』で初登場した5月20日以降の33週中20週で、ジャニーズ勢が3曲もランクインした。 1984年はチェッカーズや吉川晃司の台頭で、占有率13.7%まで減少。1986年になると、ランクイン数が田原9回、近藤8回、シブがき隊5回と人気に陰りが見え始める。前年12月デビューの少年隊が22回とカバーしたものの、占有率は8.6%まで落ち込んだ。しかし、1987年は光GENJIがデビューし、14回ランクイン。少年隊の30回、近藤の18回などを合わせ、14.0 %に回復。そして、1988年は光GENJIが52週で45回、少年隊が26回、田原俊彦が『抱きしめてTONIGHT』で華麗な復活を遂げて24回を記録。この年デビューした男闘呼組の10回などを含め、ジャニーズ勢は22.5%(※ジャニーズ事務所と他事務所の融合グループであるCHA-CHAを含めると23.3%)と過去最多の占有率を誇った。 こうして、ジャニーズ事務所は1980年代に『男性アイドル=ジャニーズ』というイメージを定着させた。その背景には、田原俊彦、近藤真彦、野村義男を『たのきんトリオ』というグループではなく、別々にデビューさせたジャニー氏の戦略が功を奏したと言える。■文/岡野誠:ライター・芸能研究家。著書に『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)。同書には『ザ・ベストテン』の裏側、初公開となる歌手の年別ランキングデータも掲載。巻末資料では、田原俊彦の1982年、1988年の全出演番組(計534本)を視聴率や内容、テレビ欄の文言などと記載。1980年代の芸能界が甦る一冊となっている。
2020.01.03 16:00
NEWSポストセブン
懐かし映像満載の番組だったが…(『歌のゴールデンヒット』HPより)
とんねるず、久米宏…、懐かし映像がモザイク処理される謎
 懐かし映像にモザイクが掛かるのはどうしてなのか――。10月7日、『歌のゴールデンヒット』(TBS系)が放送された。約4時間にわたって、男性歌手の歴代シングル総売上枚数ベスト100(オリコン調べ)が発表され、100位から順にヒット曲の歌唱映像がオンエアされた。その中で、51位のとんねるずは2人のイラスト写真とともに『ガラガラヘビがやってくる』が数秒流れただけだった。テレビ局関係者が話す。「とんねるずの事務所は肖像権に厳しいですからね。過去の番組をまとめたDVDも、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の関連作品がいくつか発売されているくらい。過去の映像もほとんどテレビで流れません」(以下同)『歌のゴールデンヒット』では、昭和の大人気歌番組『ザ・ベストテン』の貴重映像も多数放送された。しかし、アルフィーがファンの家の前で歌う際、ワイプで初代男性司会者の久米宏、黒柳徹子らしき2人の姿が映ったものの、モザイクが掛かっていた。どうしてなのか。「過去の例からして、徹子さんが『ザ・ベストテン』の映像にNGを出すことは考えづらいのですが、久米さんの事務所が肖像権に厳しいんです。他の番組では、基本的に昔の映像にOKを出すことはほぼない。『ザ・ベストテン』出演映像をまとめたチェッカーズのDVDが発売されていますが、久米さんは声が入っているのに顔は一切出てきません。同じ『ザ・ベストテン』の山口百恵や中森明菜のDVDには久米さんが映っています。こちらの方が例外なんでしょうけど、これだとチェッカーズのファンは納得しないでしょう。黒柳さんの姿はちゃんと出てきます」 テレビやDVDで過去の映像を使用する場合、事務所に許可を取る必要がある。「昔は過去の映像でもテレビ局が勝手に流していましたが、今は無理です。事務所に連絡して許諾を得ます。事務所を辞めていたら、どこに権利があるかによりますね。ただ、移籍や独立と同時に、タレント側に権利を渡しているケースはほんとんどないと思います。その場合は元の事務所の許可が出るかどうかです」 動画サイトが誕生して以降、2度と見られないと思われていた1970年代や1980年代の懐かしい映像もネットで検索すれば出てくるようになっている。「それらは違法であり、アップロードしてはいけないものですが、この流れは止まらないでしょう。現実問題として、ネットで検索すれば昔の映像が簡単に見られるのに、テレビではモザイク処理をしなければいけない。テレビ局としては悩ましい所です。 善悪の問題はとりあえず置いといて、そういう時代になってしまったのですから、肖像権に厳格な事務所も少し方針を変えてもいいのではないかと思います。全てにOKを出す必要もないですが、ケースバイケースで柔軟に対応してもいいのでは。だって、『ザ・ベストテン』で久米さんの顔にモザイクが掛かっても、誰が見ても久米さんって分かりますし、違和感が残るだけ。番組だけでなく、久米さんも損をしていると思います」 変化する時代とともに、芸能事務所の肖像権に対しての姿勢も軟化することはあるのだろうか。
2019.10.14 16:00
NEWSポストセブン
TBSの呼び掛けも… 表舞台から消えた子門真人氏の謎
TBSの呼び掛けも… 表舞台から消えた子門真人氏の謎
 10月7日、『歌のゴールデンヒット』(TBS系)が約4時間にわたって放送された。6度目となる今回は男性歌手のシングル総売上枚数ベスト100(オリコン調べ)を発表。ベスト3は1位・B’z、2位・Mr.Children、3位・嵐となった。番組では、100位から順に歌手の代表曲を、過去映像を中心に紹介。時折、現在の本人へのインタビューも挟まれた。その中で、74位の子門真人氏は居所がつかめず、司会の堺正章が「もしも子門さんがこの番組をご覧になっていたら、是非スタッフのほうにご連絡を頂ければ」と呼びかけた。 子門氏は、1976年にシングル『およげ!たいやきくん』が大ヒット。現在まで売上枚数は457.7万枚に上り、オリコンの歴代シングル売上1位となっている。音楽関係者が話す。「この曲は子供番組である『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ系)で流れ、当初はこれほどヒットするとは思われていませんでした。出荷予定は1万5000枚で、子門は5万円の“買い取り契約”でした。しかし、予約段階で25万枚を超え、あれよあれよという間に100万枚、200万枚と売れていった。もし、子門さんが印税契約していたら、億万長者になっていたでしょう。思いもよらぬヒットをしたため、レコード会社側は子門さんに100万円と白いギター1本を贈ったという噂もあります」『およげ!たいやきくん』がトリプルミリオンさえも超えた、史上唯一の“クアドラプルミリオン”を達成したため、子門は一発屋の印象をもたれがちだ。しかし、『ガッチャマン』『勇者ライディーン』『キカイダー』などの主題歌を担当する“アニメソングの帝王”という一面もあり、歌手としての評価は高かった。「子門さんはプロ野球との縁も深く、1975年には太平洋クラブライオンズの応援歌『ぼくらの憧れライオンズ』を歌っています。同曲には当時の主力選手である江藤慎一兼任監督、土井正博、白仁天、ドン・ビュフォード、マティ・アルー、東尾修、加藤初などの名前が出てきます。1992年には『ホークスタウン物語』というダイエーホークスの歌を任されている。1996年にオリックス・イチローの応援歌である『イチロー讃歌』という曲が出来た時には、結果的には実現しなかったものの、スポーツ紙には歌い手の候補の1人として元チェッカーズの高杢禎彦と鶴久政治とともに、子門さんの名前も上がっていました」(同前) 順調な活動をしていたように思われていたが、1990年代後半、子門氏は芸能界から身を引いた。芸能記者が話す。「世紀末を迎えた1999年や2000年頃には、20世紀の大ヒット曲として『およげ!たいやきくん』がメディアで頻繁に取り上げられました。しかし、子門さんは一切マスコミの取材を断っていました。2008年、日本の最も売れたシングル・レコードとして『ギネス世界記録2009』に載ることが決まった時も、コメントを出していません。2010年に『およげ!たいやきくん』のモデルとされる東京・麻布十番のたい焼き店『浪花家総本店』の3代目である神戸守一さんが逝去された時も、コメントはありませんでした」 子門氏がどうして芸能界を去ったのかは、謎に包まれたままだ。「『およげ!たいやきくん』が空前のヒットをしたのに、ギャラは買い取りの5万円プラスアルファ。それで芸能界が嫌になったという噂もありましたが、それが原因ならもっと早く引退しているでしょう。特に引退宣言をしてコメントを残したわけでもなく、フェイドアウトしていったため、真相は不明です。また歌う姿を見たい人も多いですし、いつか子門さんの気持ちが変わったら、テレビ局も喜んで受け入れますよ」(同前)
2019.10.09 16:00
NEWSポストセブン
ネットニュース黎明期に集ったライターたちはこんな面々だった
ネットニュース黎明期に集ったライターたちはこんな面々だった
 今では新聞社・出版社を筆頭に、数多くの企業がニュースサイトを運営しているが、2000年代中頃、ネットニュースが勃興し始めた頃は、まだ海のものとも山のものともわからぬ状態だった。紙媒体が隆盛を極める中で、あえてネットニュースのライターとして働いていたのは、どんな人たちだったのか。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏が振り返る。 * * * 2006年5月、突如として某ニュースサイトにフリーの編集者として参画することとなりました。当時は新聞社や通信社のサイトはありましたが、まだ多くの出版社が参入したりする以前で、J-CASTニュースが登場した直後にあたります。 それまでは私は雑誌『テレビブロス』の編集者をやっていたのですが、正直この話をいただいて、「どうすりゃいいんだ、こりゃ……」と頭を抱えていました。何しろ、編集者だったくせに、私自身ライターの知り合いがほとんどおらず、誰に声をかけていいのやら分からなかったのです。それなのに毎日、最低8本の記事を配信しなければならない。 ブロスの時は、A氏とB氏という2人のライターと組むことが多かったのですが、他に付き合いのあるライターは特集に応じて映画ライター、アニメライター、漫画ライターなど専門分野を持つ人に頼む程度でした。A氏とB氏は、ニュースサイトにも協力してくれることになったのですが、それ以上のコマがなかった。 さらに、当時はまだ紙メディアが「王道」というか、ライターの主戦場だったため、「ネットでニュースを配信する」なんてことを言うと「はぁ? 私は今、雑誌の仕事が忙しいので、そんなネットごときに書く余裕なんてありません」なんて言われることもありました。 とりあえず、運営会社の人に「知り合いのライターを紹介してほしい」と言ったところ、C氏を紹介してもらい、彼の参加が決定。あとは、私が以前にライターとして携わっていた『日経エンタテインメント!』の編集者に、誰かライターを紹介してもらうことになりました。そこで出会ったD氏は当時某週刊誌の編集部の契約記者だったのですが、彼女が同誌の契約記者をさらに5人紹介してくれました。 これまで「ネットごとき」みたいなことを言われていた身としては、週刊誌の記者としてキチンとした実績のある方々が参加してくれたのはかなり意外だったのですが、彼らがこのオファーを受けてくれた理由は後に分かるようになります。 とはいえ、毎日8本の記事を出すにはまだ人が足りない。そこで声をかけたのは、学生軍団でした。母校のプロレス研究会の後輩に声をかけ、ネットの炎上案件のリポートやら、「歌舞伎町とお台場と秋葉原にゴキブリホイホイを仕掛けた」などの、「やってみた」系のアホなネタを次々と書いてもらうことにしたのです。彼らには週刊誌記者のようにスクープを取ってくる力はないものの、体を張って何かをすることはできる。そして、時間だけはあるため、ネットをウォッチし続けることもできます。通常のバイトよりは割の良いギャラを払うことで、進んでやってくれました。◆「企画が通らない……」そんな不満を持つ人が続々と ライターとして学生バイトを確保できたのはまぁ、理解はできるでしょう。しかし、プロの記者がなぜここまでたくさん入ってくれたのか。それは、ネットニュースが、彼らが普段から持っている若干の仕事の不満の受け皿になったからです。 紙メディアの場合は、企画会議に持ち込んだネタのすべてが通るわけではありません。ページ数が限られているだけに、ボツになるものは多い。しかも、自分が本当に好きでたまらないものを企画として出したとしても、「それはお前の趣味だろ」であしらわれてしまうケースも多い。 契約記者の皆さんはそんなフラストレーションを抱えていました。そんな中、「とにかく記事本数を増やしたいから、何でもいいから書いてくれ!」という編集者が現れたのです。彼らは熱心に自分の好きなことを書き続け、原稿を日々送り続けてくれました。 そのテーマは、「大仏」「ガチャピン」「競艇」「視聴率」「秋田県」「田原俊彦」「チェッカーズ」など様々でしたが、いずれも記者の皆様方が高い関心を持っているものでした。これらは案外とPVを稼ぎ、私はじょじょに「ネットでウケるもの」が何なのかを把握できるようになっていったのです。 D氏が紹介してくれたプロの皆さんが楽しく仕事をしてくれると、今度は、彼らも別のライターを紹介してくれるようになります。どうやら彼らと同じように「企画が通らない……」と嘆く知り合いのライターに、「自由に書くことができるニュースサイトがあるよ」と声をかけてくれたようなのです。 すると「韓流」「詐欺」「キャッチセールス」「フェチ」「B級グルメ」などに興味を持つライターが次々と参加してくれ、バリエーション豊富な記事を出せるようになってきました。学生バイトに最低限の記事本数は確保してもらい、あとは書きたいものを自発的に書く記者が毎日記事を送ってくれる。それでも足りない分は私が書く、といった形で毎日のノルマを達成していきました。 このチームは以下のような構成になります。それぞれの仕事のモチベーションもまとめて紹介しておきましょう。・A氏とB氏=昔からの知り合いで新しいことをやることに興味を持ってくれた・学生軍団=通常のバイトよりはギャラがよく、それでいて楽しいバイトができた・記者軍団=本当に書きたいものを書かせてくれるゆるい編集者の下で仕事をできる 各人が好き放題やりながらも、なんとなく仕事がまわっていく状況を作れたのですが、この仕事はあれから13年経った今でも続いています。
2019.06.01 16:00
マネーポストWEB
平成の紅白は挑戦の連続だった(2018年の紅白に出場したDA PUMP)
平成の紅白歌合戦 打ち切り説を乗り越えた挑戦の歴史
 元号が平成から令和に変わる直前の4月29日、NHKで『総決算!平成紅白歌合戦』が放送された。平成元年から平成30年までの紅白歌合戦をVTRで振り返りながら、第1部では北島三郎、松田聖子、嵐という歌手たちが、第2部では内村光良、バナナマン、出川哲朗、渡辺直美という芸人たちがそれぞれの想いを語った。はたして平成の紅白歌合戦はどのように総括されるのか。「平成の紅白歌合戦は視聴率との戦いだった」と語るのは視聴率研究家でライターの岡野誠氏だ。同氏が、“平成の紅白歌合戦”を振り返る(文中で肩書きは当時。視聴率はビデオリサーチ調べ/関東地区)。 * * * 平成が始まった年、“紅白打ち切り”は現実味を帯びていた。〈本当は今年で最後にして、なくしたい気持ちだ〉(朝日新聞・平成元年9月29日付) 平成元年4月に就任したNHKの島桂次会長は、9月13日の定例記者会見で紅白歌合戦についてこう言及している。 視聴率70~80%台という驚異的な人気を誇っていた大晦日の風物詩は昭和60年代に入ると、急激に数字を落としていた。都はるみの引退、チェッカーズの初出場などで沸いた昭和59年の78.1%から、60年は66.0%に下落。白組司会の加山雄三が少年隊の『仮面舞踏会』を『仮面ライダー』と間違えて紹介したことが話題になった61年には59.4%、62年は55.2%、63年は53.9%とわずか4年で24.2%も激減していた。 いつの時代も、権威の急速な衰えは大きな話題になる。昭和63年の紅白歌合戦を伝える記事の見出しには、こんな言葉が並んでいた。〈NHK「紅白歌合戦」の視聴率がまたダウン〉(読売新聞・昭和64年1月3日付)〈「紅白」関東では過去最低の視聴率〉(朝日新聞・昭和64年1月3日付) この延長線上に、冒頭の島会長の発言があり、打ち切りが囁かれたのだ。平成元年、“昭和を振り返る”という名目もあり、紅白は開始時間を従来の21時から19時15分に改め、初の2部制を敷いた。しかし、視聴率47.0%(2部。以下同)と初めて50%を割ってしまう。島会長は〈公共放送にふさわしい大みそかの番組を職員とともに開発していきたい〉(朝日新聞夕刊・平成2年1月8日付)と紅白に代わる題材を模索した。 結局、めぼしい代案がなかったため、平成2年も紅白は2部制のまま存続。島会長は現場にこんな要求をしていたという。〈紅白のネーミング、大枠は残すにしてもマンネリ化は困る。歌を取り巻く現在の環境も変わっている。新しい時代を反映したものをどこまで出せるか?〉(日刊スポーツ・平成2年10月13日付) 同年、東西統一を果たしたドイツ・ベルリンからの中継で出演した初出場の長渕剛が予定の10分を大きく上回る17分30秒も歌って物議を醸す。23年ぶりに出場した植木等の『スーダラ伝説』も視聴者を呼び込み、51.5%と回復。それでも、島会長は〈外国からの中継を取り入れたりニューメディア時代じゃなきゃできない内容だったが、基本的には変わってないな〉(日刊スポーツ・平成3年1月10日付)と手厳しかった。 だが、平成3年7月に島会長が辞任したことに伴い、流れが変わる。代わって会長の座についた川口幹夫氏は、就任会見で紅白の継続について聞かれると、〈島前会長は「やめる」とかなり強く言っておられたようだが(笑い)、私もやめてもいいと思っている。時代が変われば番組が変わるのは当然。50%の視聴率を取っているし、新しい紅白の誕生を現場に求めています〉(日刊スポーツ・平成3年8月1日付)と存続とも打ち切りとも取れるコメントをしていた。 その後のインタビューで紅白について問われると、こう発言した。〈判断は現場にまかせます。僕らが作っていたころは、会長からは何も言われなかった。現場のやる気を生かすのが、一番いいんです〉(朝日新聞夕刊・平成3年8月23日付) 平成3年も、視聴率51.5%と前年と同じ数字を記録。紅白打ち切り説は消えていった。 以降、平成4年(1992年)は朝ドラ『ひらり』の主題歌『晴れたらいいね』を歌ったドリームズ・カム・トゥルー、ラストステージのチェッカーズ、コンドームパフォーマンスの本木雅弘などが話題を呼んで55.2%、平成10年(1998年)は安室奈美恵の復帰ステージ、初のミリオンセラー『夜空ノムコウ』を披露したSMAP、途中からマイクを通じてではなく地声で歌った和田アキ子などが視聴者の目を引き付けて57.2%を記録。平成11年(1999年)までは50%台を保っていく。 視聴率の安定していた紅白に、再び危機が訪れる。平成12年(2000年)48.4%と11年ぶりに40%台に下がると、4年後には39.3%と初の30%台に突入。この年の視聴率年間1位だったが、メディアはこんな見出しをつけた。〈NHK「紅白」39.3% 海老沢会長窮地、「史上最高」のはずが視聴率史上最低〉(スポーツニッポン・平成17年1月3日付)〈NHK「紅白歌合戦」史上最悪視聴率39.3% K-1は20.1%〉(スポーツ報知・平成17年1月3日付) この年以降、ネットテレビやSNS、スマートフォンなど地上波テレビのライバルが激増していく流れを考えれば、さらに視聴率が下がってもおかしくなかった。しかし、“平成後半の紅白歌合戦”は毎年40%前後に踏みとどまっている。『テレビ離れ』が叫ばれる中で、実に驚異的なことである。 総世帯視聴率(HUT、調査対象の中でテレビを付けている世帯の割合)と比べると、凄さがわかりやすい。【年/ゴールデンタイムの年間HUT/紅白視聴率】・平成16年(2004年)/67.9%/39.3%・平成23年(2011年)/63.9%/41.6%・平成30年(2018年)/60.6%/41.5% 平成16年と30年で、ゴールデンタイムの年間HUTは7.3%減少するも、紅白は2.2%増加しているのだ。 なぜ、平成後半も紅白は40%前後の高視聴率を保てたのだろうか。島会長が指摘していた〈マンネリ〉の良い部分を残しながらも、毎年のようにサプライズを仕掛け、従来のNHKの慣習を少しでも打ち破ろうとする演出側の挑戦が見逃せない。 平成16年に初の30%台に落ちると、それまで4年連続で続けてきた局アナだけの司会を辞め、平成17年はみのもんたを抜擢。過去にも古舘伊知郎や上沼恵美子など民放の人気司会者の起用はあったが、彼らはNHKでレギュラー番組を持っていた。しかし、『みのもんたの朝ズバッ!』(TBS系)、昼の『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)など民放でレギュラー番組9本を持っていた超売れっ子も、衛星放送を除けばNHKでの司会は初。その効果もあってか、この年は42.9%と数字を戻す。 平成22年(2010年)以降、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)出演者がほとんど毎年、司会に名を連ねていることも大きな変化の1つだ。過去にも昭和40年の林美智子、昭和61年の斉藤由貴、平成4年、5年の石田ひかりと朝ドラヒロインを抜擢していたが、今ではもはや定番となっている。司会者だけには留まらず、平成25年の『あまちゃん』のように朝ドラコーナーも組み込まれている。 平成27年(2015年)には、タモリとマツコ・デラックスという大物タレントを審査員ではなく、中継で繋いだ。平成29年の欅坂46、平成30年のDA PUMPの歌唱時には、司会の内村光良が一緒に踊った……。挙げれば切りがないほど、毎年新しい演出を試みている。 昭和の頃ならタブー視されたこともあるだろうし、「NHKらしくない」「自局の宣伝ばかり」という批判も浴びている。公共放送であるNHKが視聴率を狙い過ぎという指摘も見受けられる。 他番組はさておき、紅白に関しては昭和から年間1位を続け、平成になって1位から陥落した年もあったものの、上位に残り続けている歴史を考えれば、今さら視聴率を完全に無視した構成にすることはないだろう。 むしろ、視聴率を気にしたからこそ、“平成の紅白歌合戦”は芸能界やテレビ界、視聴者の変化そのものを現し、日本のテレビ番組における象徴的な存在となったのではないか。 振り返れば、平成初期の島会長の〈マンネリ化は困る〉という精神は、今も紅白演出の根底にあるように感じる。昭和から続く良い慣習を残しながら、時代に合わせたアレンジを加えて生き延びた紅白歌合戦。令和になっても進化を続けるか。●文/岡野誠:ライター・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシ、視聴率、プロ野球選手名鑑など。最近は角川博チェックにも余念がない。本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料の緻密な読解を通して、田原俊彦という生き方を描いた著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。
2019.05.03 16:00
フジのアナウンサー特番、高視聴率も番組構成に疑問の声
フジのアナウンサー特番、高視聴率も番組構成に疑問の声
 久しぶりにフジテレビに人気アナウンサーは現われるのか──。2月9日、21時からのフジテレビの土曜プレミアム枠で、『さんまのFNSアナウンサー全国一斉点検』が放送され、視聴率11.8%を獲得した。テレビ局関係者が話す。「こういう番組を放送すると、『アナウンサーはタレントじゃない』という批判が必ず出てきますが、テレビに出ている以上、どうしてもタレント扱いされる部分はある。フジテレビが好調な時代、毎年のように人気アナが誕生していた。それは、このような番組で良さを引き出され、キャラクター付けされることも要因の1つとして間違いなくありました。新たな人気アナウンサーを輩出する意味でも、このような番組を放送する意義はあると思います。魅力を引き出す人材として、(明石家)さんまさんほど最適な司会者はいない」 土曜プレミアム枠は、毎週バラエティや映画など多岐に渡るジャンルを放送。『FNSアナウンサー』は今年6回目の中で、1月26日放送の『報道スクープSP 激動!世紀の大事件V』の12.2%に次ぐ2位の数字を獲った。1月5日、19日放送の木村拓哉主演映画『HERO』、12日放送の『人志松本のすべらない話』よりも高かった。 その一因として、19時から2時間にわたって『四大陸フィギュアスケート選手権2019 女子フリー』がオンエアされ、13.3%を獲得した影響も見逃せない。ただ、前出の関係者は番組構成に疑問を投げ掛ける。「CMを跨がずに直接、フィギュアスケートから『FNSアナウンサー全国一斉点検』に移った。番組はオープニングトークが終わると、中村光宏アナと生野陽子アナの夫婦を最初に取り上げた。しかも、フジテレビアナウンス室でイチャイチャしているシーンを中心に約20分も2人にクローズアップ。その次は新婚である山崎夕貴アナとおばたのお兄さんのVTRを約10分も流した。フィギュアの視聴者層は40代や50代の女性が多く、彼女たちがアナウンサーの新婚生活を見たいと思うのか疑問です。 また、番組の視聴者層として、女子アナ好きの男性が考えられます。しかし、彼らは女子アナの新婚生活なんて見たくないでしょう。前番組からの流れや主な視聴者を無視した構成で、一部の視聴者が離れたのではないか。今のフジで11.8%は高いが、構成次第でもう少し獲れたと思う」 どうすれば良かったのだろうか。「23時前後に、藤井フミヤの息子である藤井弘輝アナが父親の代表曲である『TRUE LOVE』、チェッカーズのデビュー曲『ギザギザハートの子守唄』をカラオケで歌う場面が流れた。その後、スタジオで藤井アナが『ギザギザハートの子守唄』を歌い、永島優美アナがダンスをする場面があった。番組宣伝CMでもこの部分が使われており、1つの山場だったことは間違いありません。 フィギュアを見ていた女性視聴者の中で、藤井フミヤの知名度は相当高いはず。女子アナ目当ての男性視聴者も、同時間帯1位の『めざましテレビ』のメインキャスターである永島優美アナには興味があるでしょう。この場面を最初に持って来ても良かったのではないか。 視聴率が下がっていくと、知名度の高い人をまず持ってくるという“置きにいく”姿勢になりがち。生野陽子アナや山崎夕貴アナは、かつて女子アナの人気ランキングで上位の常連だったので、目立つ時間帯で長く使いたくなる。しかし、新星を育てない限り、フジの未来はありません。23時くらいになると、視聴者もそろそろテレビから離れるので、そこでインパクトの強い藤井アナを持ってくる意図もわかりますけどね」(同前) 番組では、かつてのエース“カトパン”こと加藤綾子アナと同じ国立音楽大学出身の杉原千尋アナの天然ボケぶりも話題になるなど、若手もクローズアップされた。これを足掛かりに、人気アナウンサーが輩出されるか。
2019.02.13 07:00
NEWSポストセブン
広島、松山、熊本… 「JR駅と繁華街が離れている街」【西日本編】
広島、松山、熊本… 「JR駅と繁華街が離れている街」【西日本編】
 旅行や出張で初めて訪れる街に泊まる際、注意しなくてはならないのが宿の場所。東京で暮らす人間は「駅前=繁華街」と思いがちですが、地方へ行くと、駅とその街の繁華街が離れていることは珍しくありません。駅前に宿を取れば移動は何かと楽ですが、繁華街を見ずにその街を去るのも悔しいもの。中国・四国・九州地方で、JRの駅が繁華街から離れている街を紹介しましょう。【広島(広島県広島市)】 中国地方を代表する都市で、日本有数の観光地でもある広島。確かに駅付近は栄えており、2009年に広島カープの新球場が駅のそばに完成したことで、その勢いは加速していますが、街の中心は、原爆ドームからほど近い紙屋町、八丁堀付近です。広島駅周辺にはホテルが何軒もありますが、新幹線で広島に来て、マツダスタジアムで野球を見て、駅ビルで食事を済ませるだけでは、“本当の広島”は見ていないということ。繁華街へは路面電車の“広電”で10分弱です。【松山(愛媛県松山市)】 道後温泉、夏目漱石の『坊っちゃん』、松山城など、見どころが多い松山ですが、松山駅に降り立つと、駅がこぢんまりしていることに驚くかもしれません。松山の中心は、松山駅から路面電車で10分ほどの「大街道」付近。伊予鉄道の松山市駅の方が繁華街に近くなっています。前橋、横須賀、四日市、岡崎など、JRよりも私鉄の駅の方が繁華街に近い街は全国にいくつかありますが、松山もその1つに数えて良いでしょう。【博多(福岡県福岡市)】 博多出張というと、サラリーマンは心ときめくものですが、全国に名だたる歓楽街「中洲」は、博多駅から地下鉄で2駅、商業的な中心の「天神」はさらに1駅離れています。博多駅付近も大変賑わっていますが、せっかく博多まで行ったなら、とりわけ男性なら中洲に足を運びたいはず。「駅付近も賑わっているものの、歓楽街は別の場所」という意味では、札幌とすすきのの関係に似ています。【久留米(福岡県久留米市)】 松田聖子、チェッカーズ、田中麗奈、吉田羊など、多くの芸能人が輩出したことで知られる久留米。JR久留米駅は、2011年の九州新幹線の開業に伴い、新駅舎に建て替えられましたが、それまでは非常に素朴な駅でした。久留米市民が足として使うのはもっぱら西鉄で、街の中心も西鉄久留米駅付近。こちらも松山と同様に「JR<私鉄」というパワーバランスになっています。【熊本(熊本県熊本市)】 駅と繁華街が離れているモデルケースのような街が熊本です。2012年に政令指定都市に昇格した熊本ですが、その表玄関の熊本駅は、巨大な駅ビルがあるわけでもなければ、常に多くの人でごった返しているわけでもありません。熊本の中心の「上通り」「下通り」は、駅から2kmほど離れた熊本城の近くで、広島や松山と同様、路面電車で10分ほど。駅前とはうってかわって、大変な賑わいなので、こちらに足を運ばない手はありません。【鹿児島(鹿児島県鹿児島市)】 非常にややこしいのが鹿児島です。まずJR鹿児島本線に「鹿児島駅」がありますが、こちらは唖然とするぐらい小さな駅。その1つ隣の、かつては「西鹿児島駅」という名前だった駅が列車運行上の中心で、2004年に「鹿児島中央駅」という名前に改められました。しかし鹿児島中央駅は、鹿児島の繁華街「天文館」までかなり離れており、路面電車で10分弱かかります。鹿児島駅で降りると愕然とすること間違いなしなので、お気をつけて。
2018.10.28 15:00
マネーポストWEB
昔も今もアイドルであり続ける田原俊彦という生き方
昔も今もアイドルであり続ける田原俊彦という生き方
 アイドルは卒業しなければならないのか──。ティーンエイジの頃にデビューし、20代になれば『アイドルからの脱皮』が盛んに求められる。アイドルという職業は期間限定のものなのだろうか。 そんな世間が持つアイドルのイメージに抗い続けている男がいる。1980年にデビューし、瞬く間にトップアイドルの座へと駆け上がった田原俊彦(57)である。『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の著者で芸能研究家の岡野誠氏が、田原俊彦のこれまでの発言を紐解きながら、“アイドルとは何か”について考察する。 * * *「自分しか信じていません……。信じられるのは自分と、負けないぞという気持ち」 10月14日、静岡・浜北文化センターでのコンサートで、田原俊彦(57)は静かにこう話した。 田原俊彦──。1980年6月21日に『哀愁でいと』でデビューした彼は瞬く間にトップアイドルに駆け上がり、全国の若い女性を虜にした。 コンサート会場のみならず、公開収録の『ザ・トップテン』(日本テレビ系)や各局の音楽祭に登場すると、耳をつんざくような大歓声に包まれた。 一方で、こんな人気がいつまでも続くはずがないと周囲も田原自身も思っていた。1993年10月11日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系) で、デビュー時から知る黒柳徹子を相手にこう語っている。〈田原:僕だって、(デビューの)あの時は10年持つと思わなかったし。徹子:見ていた人だってそう思っていたでしょうね。田原:僕以上に思っていたでしょうね。〉 アイドル出身ゆえか、周囲の評価は移ろいやすかった。 1984年、チェッカーズや吉川晃司などの新星が出現。アイドルとしての鮮度が落ち始めてきた頃、こう話している。〈この世界って冷たいからね。やっぱり、売れてるうちはみんなシッポ振って来るけど、売れなくなったら知らんぷりだから。そりゃそうなんだけどさ、仕事にならないんだから。そのへんは勝負だもん〉(『CanCam』1985年5月号) だからこそ、自分を信じる以外なかったのだ。〈自分でなんとか頑張るしかないんだよ、自分の人生だもん。だれのためでもない、自分のために頑張るんだよ。だから、一線で頑張ってる人っていうのは、どこか一匹狼みたいな精神があるんだと思う。自分しかないんだ…ってね〉(『TOSHI―LAST HERO』1986年9月発行) 主演ドラマ『教師びんびん物語II』(フジテレビ系)が高視聴率を叩き出し、主題歌『ごめんよ涙』がオリコンや『ザ・ベストテン』で1位に輝いた1989年、デビューからの10年をこう振り返っている。〈この10年の間、それは壁にブチあたったこともあったよ。でも芸能界をやめようと思うほど重症なもんじゃない。精神的な葛藤はあったけど、それから逃げ出すのはズルイと思う。たたかれても、たたかれても、いつも、いまにみてろよという気持ちになった。自らプレッシャーかけて、そのプレッシャーに打ち勝って頑張ってゆくタイプなんだ。そんな自分、結構スキだよ(笑)〉(『TVガイド』1989年5月19日号)『教師びんびん物語II』のスタート前には、視聴率30%を目標として公言。実際、最終回で31.0%を記録。フジ『月9』初の快挙であり、見事な有言実行だった。 盤石な地位を築いたように見えても、田原はまだこう話していた。〈いつもトップだったわけじゃないけど、平均点のところにはいられた。『一発屋』じゃイヤだから、それなりに汗かいたし。『自分がいつ消えてなくなるか』と、今でも思う。この世界は(将来の)約束がない、ギャンブルみたいなところあるから〉(朝日新聞1990年6月29日付夕刊) テレビからいきなり飛び出したように見える田原俊彦というアイドルは、常に売れ続けなければならないという宿命を背負っていたのか。◆努力を続けても盛者必衰は避けられない だが、いつまでもデビュー直後のような人気を永遠に保てるアイドルは存在しない。言い換えれば、人気の下落はアイドルという定義から外れることになる。 パッと出てきて、パッと散る――。 それが、アイドルという言葉に含意されている偏見ではないか。その風潮に抗い続けたのが、田原俊彦だったのである。〈やっぱり自分に負けることが一番悔しいし。向上心はいつも忘れずにいたいしね〉(山梨日日新聞1991年8月14日) いくら努力を続けようとも、盛者必衰は避けられない。田原の人気も1990年代に入ると低下していく。1991年の主演ドラマ『次男次女ひとりっ子物語』(TBS系)は、『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)という強力な裏番組の存在もあり、全話平均視聴率10.6%に終わる。 翌年、雪辱を期す機会が巡ってくる。漫画『課長島耕作』の実写版映画の主演に抜擢されたのだ。根岸吉太郎監督は田原と島耕作の共通点をこう話していた。〈反骨精神や個性的な部分。いろいろな挫折を味わっても上手く出世していくところ。動物的カンを持ち合わせながら、しかもクレバーで、表面にはクレバーさを出さない点なんか似てますよ〉(『FRIDAY』臨時増刊1992年8月31日号) 田原と接すれば、内面的な強さや良さが十分理解できる。だが、世間はデビューから12年経っても、「あはははは!」という笑い声に代表される表面上の軽薄なイメージを引きずっていた。田原自身、こう語っていた。〈イメージっていうのはね、印象にすごく強く残りやすいですからね。僕らみたいな(アイドルという)ポジションの人は特に〉(TBS系『アッコにおまかせ!』1992年9月27日放送) 公開前にはシリーズ化が検討されていた『課長島耕作』は、1作で終わってしまう。世間の抱く田原俊彦と島耕作のイメージが合致しなかったのかもしれない。 そして、1994年2月17日の長女誕生記者会見に端を発したマスコミによるバッシングとジャニーズ事務所独立が重なったこともあり、田原をメディアで観る機会は激減した。 それでも、田原俊彦はめげたり、しょげたりしなかった。〈場面さえ与えられたら、ぜったいに人には負けないという気概はあります。オレのパフォーマンスは負けないって。もちろん、時代が欲するものと、自分の立場、今の環境というものはあるから、必ずしも、思いと現実のバランスがとれているわけじゃない。でも、「負けないぞ」という気持ちがなくなったら、終わりでしょう。自分を信じ続けないと〉(『婦人公論』2001年9月7日号)◆何歳になろうと人を幸せな気持ちにさせる表現者 1980年代に頂点を極めても、1990年代に苦境に陥っても、2000年代にどん底を迎えても、10年代に人気復活の兆しが見えても、田原の精神は何ら変わっていない。 その背景には、小学1年生の時に父親を亡くして金銭的には苦しい少年時代を送ったことがあるのに加え、偏見を持たれがちな“アイドルという出自”も「負けてたまるか」という反骨心に拍車を掛けたのではないか。 田原俊彦のライブに行くと、何十年もファンを続けている人たちが沢山いる。子育てを終えて、久しぶりに帰ってきたファンも大勢いる。近年、男性が3割くらい占める会場もある。 MCでは昔と変わらずに「あははは!」と無邪気に笑うアイドル性を保ちながら、ひとたびイントロが鳴ると真剣な表情に切り替わる。 57歳で2時間歌って踊る凄味を体感した観客は、公演が終わると「ありがとー!」とステージを去ろうとする男に感謝を口にし、満面の笑みと計り知れない幸福感を抱いて会場を後にする。 10代だろうが、30代だろうが、50代だろうが、人を幸せな気持ちにさせる表現者は“アイドル”なのだ。 いつまでもファンの期待に応え続けていれば、何歳だろうと、アイドルと呼べるのではないか。“アイドルからの脱皮”を図る必要なんてないし、喜んでくれるファンがいる限り、アイドルは永遠にアイドルであり続けるのである。 アイドルとファンは幸福な関係にある。田原俊彦は事あるごとにコンサートで照れながらも、こう呟く。「みんながいなければ、僕はいないですから」──。 ファンはこう思っているはずだ。「トシちゃんがいなければ、私はいない」──。 メディアにバッシングを喰らっても、ファン以外の人から嘲笑されても、田原は変わらずにライブで歌って踊っていた。 ステージに立てば、暖かく迎え入れてくれるファンが存在する。だが、その状況に甘えてライブの質が低下すれば、ファンは離れていく。良好な関係を壊さないために、田原は努力を続けてきた。 その根底には、「信じられるのは自分と、負けないぞという気持ち」があるのだ。ライブのMCでそう述べた後、田原は少し恥ずかしそうに、やや小さめの声で会場のファンに告げた。「(他に信じられるのは)愛する数えられる友達、ステージを一緒にやる仲間、(ファンの)みんなです」
2018.10.28 07:00
NEWSポストセブン
83年アイドル、森尾・松本・大沢・木元・桑田・小林座談会
83年アイドル、森尾・松本・大沢・木元・桑田・小林座談会
 多くのスターを輩出した1年上の代「花の82年組」に隠れて“不作”と評された83年デビューのアイドルたち。彼女たちが35年の時を経て再び集結し、「お神セブン」なるグループを結成した。シアトル在住のメンバー・徳丸純子を除いた6人、大沢逸美、木元ゆうこ、桑田靖子、小林千絵、松本明子、森尾由美が集まり、アイドル時代に水泳大会で歌ってもワイプ部分に小さく映るだけだったことを語りあったあと、アイドル内格差についての思い出も語り合った。小林:私は「水泳大会で絶対に勝って目立とう」と思って、息継ぎもせずにクロールで25メートルを泳いだの。必死の思いで1位になって水中から顔を上げたら、褒められるどころか「お前が勝つなよ」「抜いちゃダメだろうが」って厳しい視線が集中してた。森尾:あの時の会場は「82年組を抜かすな」「83年組は忖度せよ」って暗黙の了解的な空気が漂ってた気がする。大沢:そうだよね! 確か雑誌なんかでも徐々に「不作の83年組」なんて書かれ始めた頃でさ。森尾:確か83年はワインも不作の年で、それを引き合いに出して書かれた記事もあったような。松本:ワインの不作はうちらのせいじゃない(笑い)! でもマネージャーが気を遣ってそういう雑誌を見せないようにしていたのにも、薄々気付いていて。申し訳なかったなぁ。小林:しかも後輩の「84年組」には人気がある子が多かったから、下からの突き上げも相当なプレッシャーだったよね。桑田:岡田有希子ちゃんに菊池桃子ちゃん、荻野目洋子ちゃんと次々と個性的なアイドルたちが出てきたもんね。小林:私の事務所の後輩にはチェッカーズがいてさ~。デビュー当時の彼らなんて、田舎臭い男の子たちだったんだよ。私の方が先輩だったから、「千絵さん、千絵さん」なんて慕ってくれててさ。「みんな頑張ってね!」なんて励ましてたんだけど、あっという間に抜かれて大スターになっちゃって。桑田:でも同じ事務所の大御所の先輩方はとても優しくしてくれた印象が強い。特に松田聖子さんは、当時15歳だった私に楽屋でメイクしてくれて。私には濃く感じたんだけど、実際にカメラに映った自分の姿を見ると、キマッてるの。やっぱり聖子さんはセルフプロデュース能力も優れているんだなあと。木元:私は中森明菜さんに特別な思い出がある。『8時だョ!全員集合』の撮影現場で明菜さんと隣になった時、初めての生放送で緊張していたら、「そんなに後ろにいたら映らないから、もっと前に出な」って前に押し出してくださって。大沢:人気絶頂の先輩方は、性格も本当に優しかったよね。寮で一緒だった(榊原)郁恵さんにはよくしてもらったな。◆83年組の中にも“温度差”大沢:でも私たち同期の中にも温度差はあった。私と明子と千絵ちゃんはアイドル志願して芸能界入りしたけど、由美ちゃんとゆうこはスカウトだからね。木元:そうね。頼まれて芸能界入りしたんだから「賞が取れて当然だ」って思ってたし、取れなくても「そういうもんなんだ」くらいにしか思わなかった。森尾:うん。悔しいとかって感情もなかったなぁ。芸能界は「売り出し方が大事」って感じてたから、デビューから出鼻をくじかれた私は“王道路線”じゃ無理なんだろうなあと。松本:なんて冷静な! 私はそんな冷めた考えはできなかったよ。故郷に錦を飾るまで田舎に帰れない気持ちで、なんとかして売れたいと家でひとり何度泣いたことか。売れたくて売れたくて、必死でどんな仕事も受けたし。小林:そうだよね。私は逆立ちして歩けたから“逆立ちができるアイドル”として夏の暑い日にビルの屋上で逆立ち歩きさせられたの! 掌を火傷しながらやったのに、テレビには脚しか映らなかった(笑い)。桑田:私もリサイクルが得意ってことで「私のリサイクル法」みたいな囲み記事を作ってもらったり。それも当時は大きな事務所に入っていたから義理でいただけた仕事のようなもので。小林:でも、それが後に「自虐ネタ」として活きたし、何より私たちがアイドルの中でバラエティでもお仕事をもらえる“元祖バラドル”という道を切り開いたわけで。松本:そう言ってもらえると格好いいけど……。生き延びるために必死で、放送禁止用語(*)まで言っちゃったしね(一同、爆笑)。【*『オールナイトフジ』『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』の10周年記念合同生番組で、片岡鶴太郎と笑福亭鶴光からそそのかされて、女性器の名前を3回叫んだ事件。その後、松本は2年間“干された”状態になった】◆7人のライブ『35周年イベント☆83年組アイドル~不作と言われた私たち「お神セブン」と申します~』が博品館劇場(東京・銀座)にて2日限定で開催。11月19日(月)19時開演、20日(火)14時開演/19時開演。撮影■井上たろう※週刊ポスト2018年9月21・28日号
2018.09.16 07:00
週刊ポスト
「平成四年」はどんな年? 冬彦さん現象や「ねぇ、チューして」
「平成四年」はどんな年? 冬彦さん現象や「ねぇ、チューして」
 平成最後の夏を迎えている。あなたは、平成の出来事をどれくらい覚えているだろうか? ここでは、平成四年(1992年)を振り返ってみよう。 夏季冬季、2つのオリンピックが開催された平成四年。冬季では日本過去最多のメダル7個を獲得。夏季のバルセロナ五輪では、女子水泳で14才の岩崎恭子が日本初の金メダル。女子マラソンで有森裕子が銀メダルと、合計22個のメダルを獲得した。 3月、東海道新幹線に300系『のぞみ』がお目見え。東京~大阪間の所要時間が2時間半に短縮された。 10代のカリスマとして人気を博した歌手・尾崎豊が急逝したのもこの年。東京・文京区の護国寺で行われた追悼式には、約4万人のファンが集まった。また、同年10月には女優の太地喜和子が乗っていた車が海へ転落。48才という若さでこの世を去った。 1月の大相撲初場所で19才5か月の史上最年少優勝に輝いた貴花田と宮沢りえが11月に婚約会見。手と手をつないだラブラブ会見後わずか2か月で破局。 前年から年末年始を挟んだ約20日間、ダスキンのCMキャラクターに起用されると同時に一躍国民的アイドルとなったのが、100才の双子姉妹「きんさん・ぎんさん」こと成田きんさんと蟹江ぎんさん。 新語・流行語年間大賞のほか、「うれしいような、かなしいような」、貴花田と宮沢の婚約の感想を求められて答えた「はだかのおつきあい」も語録賞を受賞。 テレビでは、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』(TBS系)の冬彦さん現象が巻き起こり、アニメ『美少女戦士セーラームーン』(テレビ朝日系)の決め台詞「月に代わってお仕置きよ」が子供たちに大流行。 化粧品CMからは「ねぇ、チューして」と唐沢寿明におねだりする水野美紀がブレーク。商品では、ワコールから胸を寄せて上げる『グッドアップブラ』。プチプチとした新触感のタピオカを用いた食品も大ヒットした。■平成四年の主な出来事1月7日  米ブッシュ大統領来日3月5日  千葉・市川一家4人殺人事件4月7日  日本初の顕微授精ベビー誕生4月25日  歌手の尾崎豊(享年26)が死去6月15日  国際平和維持活動(PKO)成立、自衛隊カンボジア派遣(9月~)7月25日  バルセロナ五輪開幕10月23日 天皇皇后両陛下が初の中国訪問11月27日 貴花田と宮沢りえが婚約会見12月1日  きんさんぎんさんが新語・流行語大賞の年間大賞を受賞12月19日 『クイズダービー』(TBS系)放送終了。17年の歴史に幕12月31日 チェッカーズが『第43回NHK紅白歌合戦』出場を最後に解散※女性セブン2018年9月20日号
2018.09.11 16:00
女性セブン

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