「戦争ばかりはやっちゃあイケナイ」
それでも、事件から丸84年、戦後75年が過ぎて、ようやく被害者の側にもスポットが当てられるようになりつつある。
この事件で“襲撃対象”にされたことの意味は決して小さくない。裏を返せば、それほど青年将校(およびその背後にいた軍首脳部)にとって“排除”すべき人間だと判断されたことになるからだ。
とりわけ陸軍大臣や参謀総長と並ぶ「陸軍三長官」の一人だった渡辺教育総監は、青年将校らにとっては同じ陸軍の上官にあたり、その点では内紛や権力抗争の色合いも濃くなる。しかも、標的とされた斎藤元首相や岡田啓介首相、鈴木貫太郎侍従長(のち首相)らが海軍出身の政治家だったのに対して、渡辺は唯一人、現役の陸軍軍人だった。その渡辺がなぜ襲撃対象とされたのか——詳しい経緯は、今も明確になっていない。
青年将校らの後ろ盾になっていたとされる真崎甚三郎大将が教育総監の任を更迭され、その後任に渡辺が就いたことや、事件の前年に渡辺が「天皇機関説」を支持するような発言をしたと受け取られたことが原因とする見方もある。だがその一方で、事件直前まで渡辺は襲撃対象に入っていなかったとする情報もあり、判然としない部分も多い。
そんな渡辺が強く主張していたことの一つが「非戦(あるいは避戦)」の思想だった。前掲書『渡辺錠太郎伝』には、渡辺と新聞記者との印象的なやりとりが紹介されている。
記者から「これからは、日本も世界の軍事大国ですねえ」と言われた渡辺は、第一次世界大戦末期から大戦後にかけて欧州に駐在した経験をもとに、次のように返答する。
「いや、その軍事大国というのが心配だ。産業経済や国民生活がそれに伴なっての大国ならばよろしいが——軍事だけが独り走りをした大国は何よりも心配だ。ドイツもなかなか偉い国であったが、戦争だけは大間違いをやらかした。どこの国でも軍事力が大きくなると、戦争がやりたくなる。だが、どんな事があっても、戦争ばかりはやっちゃあイケナイ」
「今後の戦争はこれまで考えていたような軍隊と軍隊とだけの生やさしいものではない。一度戦う以上は、何がなんでも勝たねばならぬが、勝っても、負けても、国民のすべてが悲惨のどん底に落ち入らざるを得ない。私は戦い破れたドイツ、オーストリーばかりでなく、勝った国のイギリス、フランス、ベルギー、オランダなどもつぶさに見て来たが、どこもかしこもみじめな有様であった。日本も世界の列強にならねばならぬが、しかし、どうでも戦争だけはしない覚悟が必要である」