会場を見渡せば、唯一マスクをしていない人間が。進行役のセリ人である。名調子がセリ値を上げる。「おっと8000万! 8200ありませんか? いかがですか? ございませんか、ありませんか?」と歯切れよく畳みかける。そのとき計ったように若駒の嘶き(いななき)。彼らの目くばせが会場の空気を迫り上げることは間違いない。ただ見ているだけの私の気持ちも浮き立ってくる。
ただし。ある馬主さんは言う。
「セリ自体は変わらずスムーズでしたけど、いつもの賑やかさが、ちょっとね」
社交に乏しい。たとえば。会場に騎手の姿がない。例年なら勝負服ではない普段着のジョッキーたちの姿が新鮮である。不要不急を避ける移動の自粛。だが、セレクトセールはセリという経済行為と同時に、馬主さん、生産者、調教師、騎手、記者などが一堂に会する交流の場でもある。取材するプレスも27人だけ。100人超えが通常なので4分の1だ。
しかし。私はそこに居た。記録破りの2馬を目の当たりにできた僥倖。きっとクラシックに出るぞ! ダノンダーリングとショウナンシーヴか?
2年後に愉楽が待っているってのもなかなかの贅沢だ。そのころには、今の日本の閉塞感も霧散しているはずだ。きっと。
●すどう・やすたか 1999年、小説新潮長編新人賞を受賞して作家デビュー。調教助手を主人公にした『リボンステークス』の他、アメリカンフットボール、相撲、マラソンなど主にスポーツ小説を中心に発表してきた。「JRA重賞年鑑」にも毎年執筆。
※週刊ポスト2020年8月14・21日号