〈父は大学以前の教育は戦前ですけれども、それ以降は戦後です。そうすると、戦争というきわめて悲劇的な経験をしていますから、そのことが非常に大きく思想形成に影を投げかけていたわけです。どうしてあんな戦争になってしまったのかとか、それに対する世代的な反省とか、そういう懐疑的な所がやはり多かった。
けれども祖父の場合は、先の大戦に至る前の、ある意味では日本が大変飛躍的な前進を遂げた〈栄光の時代〉が青春であり、若き日の人生そのものだった。だから、それが血や肉になっている。その違いが実に大きかったわけです〉
晋太郎の戦争体験を「非常に大きく思想形成に影を投げかけていた」と捉え、岸の青春時代を〈栄光の時代〉と呼んで憧憬を隠さない。そのうえで岸への傾倒の理由を、こう書く。
〈わが国の形として、祖父はアジアの国としての日本が、皇室を中心とした伝統を保って、農耕民族として互いに一体感を持ちながら強く助け合って生きていくという国のありようを、断固として信じていました。そのためには、自分は相当のことだってやるぞという感じがいつもあふれていた。それに強い感銘を覚えたことは事実です〉
岸と同世代の政治家として、日本が戦争に向かう中で官憲ににらまれながら「反戦」を唱えた寛の思想や存在は、どこにも言及がない。
「私は確かに安倍晋太郎の次男です。しかし私は私として、今から一政治家として生きていく決意です。ぜひ、ご支援、ご支持をお願いします」
初出馬のとき、晋三は父の後援会メンバーを中心とする集会で、ことさら父との違いを主張してみせたものだった。
そのときすでに、本来なら岸とともに誇るべき祖父・寛の思想も、父の中の「思想形成の影」の部分として切り捨てていたのかもしれない。