◆1976年 新宿ロフト開店
収容人数300人を誇り「ロックといえば新宿ロフト」と称されるほど、ロックを志す人々の聖地となる。フリーペーパー「Rooftop」の発行やレーベル立ち上げなど、ロフトがライブハウスの枠を超えた存在となった時期。
また、あの内田裕也も初登場。“ロフト・ニューウェイブ御三家”ARB、アナーキー、ザ・ルースターズが登場し、人気を博した。
この頃よりザ・ロッカーズやザ・モッズ、シーナ&ロケッツ、暴威など、ロック色の強いバンドが活躍。ザ・スターリンやアースシェイカーなどのパンクやメタルバンドのほか、テクノといった新たなジャンルのバンドの出演が増えていった。
◆1980年 自由が丘ロフト開店
大人が楽しめるスタイリッシュなロックバーを目指した。2018年閉店。
◆1991年 下北沢シェルター開店
新宿ロフトに立ち退き問題が浮上した際の“避難所(シェルター)”として開店。エレファントカシマシや、若者を中心にブームとなったメロディック・パンクシーンを牽引したハイスタンダードなどが腕を磨いた。
◆1995年 ロフトプラスワン開店
ジャンル制限なし、タブーなしのトークハウスライブ。日々想定外のハプニングが……。席亭は平野さん。
◆毎日がカオス! ロフト事件簿
【1】ギャラの代わりに飲み放題
集客にかかわらず1バンド1万5000円を出演料として払っていたが、赤字続きで方針転換。
【2】チャージ全額バック制
ギャラの固定制をやめ、成功報酬型のシステムを開発。本来は店の収入となるチャージ(入場料)を全額出演者に渡し、採算は飲食の売り上げで立てることにした。
【3】森田童子
「ここで歌わせてください」と西荻窪ロフトを訪れたときから突然の引退までの8年間、時代がロック全盛になっても、伝説のシンガーはロフトのステージに立ち続けた。
「50年の歴史のなかで、最も印象に残っているアーティスト」(平野さん)。2018年に逝去。
【4】伝説のタモリ「4か国語麻雀」東京初ライブ
1975年、山下洋輔や筒井康隆、赤塚不二夫らがカンパで福岡からタモリを呼び寄せ、「4か国語麻雀」を披露したのが下北沢ロフト。山下から「タダで貸してくれと頼まれて。飲食代だけはさすがに払ってもらった」(平野さん)。
【5】パンクバンドの阿鼻叫喚
武闘派のアナーキーは、ザ・スターリンの演奏中に客席からボトルやグラス、パイプ椅子を投げるなどやりたい放題。この暴動を契機に、店では飲み物をグラスから紙コップに変えて出すようになった。
【6】全員やめます!
ノイズバンド・非常階段が納豆、嘔吐物、尿、ミミズなどをまき散らした過激ライブの翌日、平野さんは、異臭たちこめる新宿ロフトのスタッフ全員に呼び出され、こう告げられた。その後、非常階段は出入り禁止となった。
【7】BOOWY生意気伝説
平野さんが知人から「元暴走族ですが、将来性のある音を出すのでどうか面倒を見てやってください」と泣きつかれたのが群馬・高崎の“暴威”。けんかや遅刻上等の不良バンドだったが、氷室京介、布袋寅泰が生み出すエッジの効いたサウンドで、すぐに人気バンドに。1982年、BOOWYに改名、1987年に解散。
(『BOOWY』の3文字目は、ストローク符号付きのO)
※女性セブン2020年9月24日