終戦75年を迎えた今年は、日本が戦争に突き進む契機となった満洲事変(柳条湖事件)勃発から90年目でもある。──事変勃発の1週間前にあたる昭和6(1931)年9月11日、東京・神宮外苑の日本青年館において、陸軍航空本部長・渡辺錠太郎大将の講演会が開かれた。のちに二・二六事件(1936)で、同じ陸軍に所属する青年将校らに暗殺されることになる渡辺大将は、軍事専門書から文学書まで読破する無類の読書家として知られ、「陸軍の文学博士」「学者将軍」とも呼ばれた異色の軍人だった。
「現今の情勢に処する吾人(われわれ)の覚悟と準備」と題された講演は、当時、陸軍が死守しようとしていた満蒙(まんもう=満洲および内モンゴル)地域の問題についての言及から始まる。『渡辺錠太郎伝』(岩井秀一郎著)によれば、渡辺の軍歴の中で満洲を含めた中国大陸との縁はほとんどなく、公の場で満蒙のことを話題に挙げていること自体、珍しいという。当時陸軍は、満蒙地域における諸権益を守るべく国民世論の支持を得ようと宣伝を繰り返しており、そういった流れの中で企画された講演会だった可能性もある。
それでも渡辺は、自分の周囲の人々に満蒙問題について訊ねてみた際の率直な反応を紹介している。すると、そもそも市民の間ではこの問題については関心の薄い人が多く、また返答があった人も「こんな不景気な時に戦争になったら困る」「戦争をやられては堪ったものじゃない」といった否定的な意見だったという。その上で、渡辺はこう続ける(*注)。
〈いかにも、戦争はみだりに起こすべきものではない、昔の人も戦争のことを「死生の地 存亡の途(みち)」と申しております。個人では死生のわかるるところ、国家としては存亡のわかるるところである。
戦争はみだりに起こしてはならぬ。ことに近代の戦争なるものは、その戦場の拡大したこと、いわゆる国民戦争の性質を帯びまして、決して陸海軍の軍人が戦場で戦(いくさ)をしているだけでは済まない。
なお近ごろ航空機が発達しました結果、戦争は国内深く著しくその影響を受けるのでございます。また兵器がすこぶる精鋭になりましたために、その損害の大なること、費用の多額を要すること、万々が一、戦に負けましたならば、その悲惨な状態は到底経験をしない者が想像も及ばないものがございます〉
【*注/渡辺の講演については、読みやすさを考慮して、旧漢字・旧かな遣いは現行のものに、また一部の漢字をひらがなに改めました。行換えのほか、句読点についても一部加除したりしています。[ ]は引用者注。出典は「渡邊大将講演(現今の情勢に処する吾人の覚悟と準備)」麻布連隊区将校団(防衛省防衛研究所所蔵史料)】