なるほど、『一人称単数』では、「私」は、バーに居合わせた女性から本人に覚えのない「おぞましいこと」を犯した罰を突如、糾弾されるが、「私」が罪に思い当たらず混乱する様が、父や祖父の世代の「罪」をアジアの国々から糾弾される現在の「日本」の、もし「比喩」ならそれは一編の文学作品として、この国の歴史の忘却への「批評」たり得ているのだろうかという疑問は当然残る。
村上春樹は百田尚樹ではないのだから、「比喩」や「寓話」で歴史を語ることはいい加減、やめるべきなのだ。『猫を棄てる』でそのことだけが露わになった。
※週刊ポスト2020年10月2日号