オピニオンがウケる風潮の危うさ
石戸:ジャーナリズム、もっと広くノンフィクションの世界は、そういった二元論や二項対立的な考え方をせず、その中間にあるグレーな領域を描くものであるはずです。ところが、今はジャーナリズムも二項対立に絡め取られている部分がある。僕は『ルポ百田尚樹現象』を発表した後に、リベラル派の物書きから「百田さんを取材することは、相手を利することになる」という批判を浴びました。それはまるで社会運動家のような批判のされ方だと思いました。
グレーな部分を描くためには事実を積み上げる取材が必要です。僕が所属した毎日新聞には「記者の目」という、取材した記者が自分の考えを書く名物コーナーがあります。僕もラッキーなことに現役時代に何度か書ける機会がありました。そこで担当デスクから何度も言われたことがあります。記者が意見や論を書くためには、その前提として事実を積み上げること、積み上げた事実を読んだだけで読者が「この記者はこんなことを考えているんじゃないか」と思ってもらえることが大切だということです。
非常にオーソドックスな教育を受けましたが、今は悪い意味で白黒をつけたがる運動家のような言葉のほうが人気がありますね。
江川:バシッと論を言ってくれる人のほうがウケるわけですね。それは自分の読者や支持者を意識しながら論を展開するということで、百田さんに通ずるところがある。
私はジャーナリズムや評論の役割は、事実や論評を提示することで、人々が考える材料を提供することだと思うんですね。そして提示したものが、そのまま受け取られることが良いわけではない。考える材料になるならば批評や批判は大切ですが、相手をこき下ろすことで自分の支持者が喜んでくれるというものを提供し始めると、本来の目的から変わってしまいます。
石戸:インターネットやSNSについて僕が反省的に捉えているのは、多くの人々が行動やアクションのほうこそが大事だと思ってしまったことです。社会運動を通して世の中を変えたいということは大切なことで、ここを否定する気はありません。ですが、ジャーナリズムやノンフィクションの世界では、江川さんがおっしゃったように考え方を提供することもまた大切にされてきたはずです。
資料を読んで、事象を見て、人と会って、話を聞くという取材過程を通してどう考えていったかまで描くことはできるはずですが、SNSでは短い字数の中でそうした過程を捨象してしまいがちです。
江川:そこで考えたり、迷ったり、あるいは判断を留保したりすることがとても大事だと思うんです。けれども、世の中の風潮としては、早く結論を、早く判断を、早く行動を、ということになっている。スピード感が問われるうちに、ゆっくり考えたり、迷ったり、試行錯誤すること自体が優柔不断に見えてしまっているのかな、と思いますね。