ところが、アジア・太平洋戦争が始まると、働き手の不足から女性の社会進出が進む。女性も軍需工場に動員され、過酷な労働条件のもと労働を求められたり、国防婦人会が結成されるなど、社会参加の機会も与えられた。
「しかし戦争が終わって男性が職場に復帰すると、女性は再び職場から去っていきました。踏ん張って働き続けた女性もいましたが、もともと男性の職場だったので、多くの女性は去らざるを得なかったのです」
戦時中、科学研究や事務処理などの現場で計算への需要が高まるにつれ、「計算手」として働く女性も多かった。職場には近代的な労働の分業システムが導入され、高度な数学の知識はないが、計算機械などを操りながら素早く計算をこなせる「職人」としてのスキルが重宝された。
国立歴史民俗博物館の教授で、『性差〈ジェンダー〉の日本史』のプロジェクト代表を務める横山百合子さんはこう話す。
「戦後は、24時間動き続ける最新のコンピューターに合わせた働き方が求められるようになり、プログラマーやシステムエンジニアは男性がメインの職業になりました。もともと女性が中心だった領域ですが、家事や育児など家庭内労働を重要視する風潮もあり、女性はキーパンチなどの単純作業を昼間に行う程度にとどまりました」
GHQの方針もあり、1947年に労働省の婦人少年局が新設されると、男女の性差別廃止を目指す活動が行われた。
《男女同一労働同一賃金になれば》
《働く婦人よ 男子とともによい発言者となりましょう》
こうした考えに、当時の女性たちは大いに励まされたという。70年以上も前のポスターに並ぶキャッチコピーに対し、「変わった」と思う人もいれば、「70年経っても同じ」と考える人もいるかもしれない。