原巨人がソフトバンクに2年連続の4連敗を喫して幕を閉じた今年の日本シリーズで、巨人とソフトバンクの力の差、セ・リーグとパ・リーグのレベルの差がはっきり見えたことは、多くの野球ファンにショックを与えた。『週刊ポスト』(12月7日発売号)では、巨人の黄金時代を支えたV9戦士4人が、原巨人と今の野球界に「喝」を入れているが、4人はインタビューで、誌面では紹介できなかった「V9巨人の知られざる逸話」も多く明かしている。当時と今の野球は大きく違うというのは当然だが、勝負にこだわり、厳しい競争と鍛錬を生きた先達の体験談は、今も輝きを失わない。
「エースのジョー」の異名でファンに親しまれた城之内邦雄氏は、1962年のルーキーイヤーに24勝をあげて新人王に輝く。その後7年間で129勝をマークし、V9前半の立役者となった。「ジョー」が当時の巨人の強さの秘密として挙げたのは、キャッチャーだった森祇晶氏のスバ抜けたキャッチング技術だ。
「森さんは、どんな球をどこに投げても後逸しなかった。当時はサイン盗みが当たり前の時代で、金田正一さんなどはノーサインで投げていたし、私もストレートとシュートのサインは同じだった。森さんは、“カーブのサインの時は真っすぐは投げないでくれ”と言っていたが、それ以外は何を投げても黙って受けてくれましたね。
真っすぐを待っている相手にシュートを投げれば打たれなかった。もちろん森さんはサインを出すが、こっちは投げる瞬間にバッターの構えや雰囲気を見て球種やコースを変えていました。森さんはそれをちゃんと捕ってくれた。あの金田さんですら、森さんを評価していましたよ(笑い)。金田さんは怖い先輩だから、後逸したら怒られるからね。それをノーサインで受けていたから、キャッチングだけでなく、400勝投手の配球も身につく。そうやって鍛えられていったんです。
森さんは、内外角に大きく外れたり、高めやワンバウンドの投球を捕る練習にずいぶん時間を割いていた。まさに守りの要、守りのプロでしたね」
V9を達成した指揮官・川上哲治氏の下で、コーチ兼ショートとして活躍した広岡達朗氏は、後に監督としてもヤクルトや西武を常勝集団に育てた。広岡氏は、川上氏が選手に課した厳しい競争がチームを強くしたと振り返った。
「カワさんは、この選手に4番を任せる、エースを任せると決めたら、それを徹底した。そして、それができなくなったら“辞めてくれ”と言い渡しましたね。それに比べて、原(辰徳・現監督)は、阿部慎之介(現2軍監督)が4番を打てなくなれば、6番、7番、8番を打たせる。4番として獲得した村田修一(来季1軍野手総合コーチ)にも7番を打たせる。
カワさんは、各ポジションで選手を容赦なく競争させました。どのポジションにも、大学や社会人のトップと言われた選手をどんどん入団させてレギュラーを奪わせた。だから選手が育ったんです。森が守っていたキャッチャ―には、野口元三、大橋勲、槌田誠といったライバルをぶつけてきた。自分のポジションを守るために一生懸命練習するし、嘘を教えてライバルを蹴落としたという話もある。チームの中でも、自分以外は敵だという競争社会を作り上げたんです」
川上氏の厳しさについては、V9が始まった1965年に20勝して日本一に貢献した中村稔氏もこう証言した。
「川上ジャイアンツがV9の間に日本シリーズで連敗したのは1回だけです。1つ負ければ2連勝、3連勝で一気に決着をつけることが多かった。川上監督は選手にも厳しいが、自分にも厳しい人でしたからね。オフには反省のために岐阜の禅寺で座禅を組んでいた。僕は監督とはゴルフ仲間だし、釣りの師匠だったのでわかるが、グラウンドでは厳しく、息抜きもうまい人だった。もし日本シリーズで4連敗したら、間違いなく辞表を出したでしょう。少なくとも、ヘッドコーチやバッティングコーチ、ピッチングコーチが責任を問われたはずです。川上監督時代、実績のあった別所毅彦さんや荒川博さんが途中でコーチを辞任したことには、ちゃんと理由があったのです」
川上氏は、コーチの陣容にも気を配ったという。「豆タンク」の愛称で堅牢な守備を誇った黒江透修氏がこう言う。
「川上監督は、補強もしたけど生え抜きを大切にした。王ちゃん(王貞治氏)を育てるために大毎から荒川さんをコーチに招聘し、名参謀として知られた牧野茂さんも中日から迎え入れた。牧野さんは球団出身者ではない初のケースだった。チームを強くするためには、選手よりもコーチとして有能な人材を外部から連れてきた」
「時代が違う」と言ってしまうのは簡単だが、これだけの屈辱にまみれた原巨人は、かつての栄光から学ぶ姿勢も必要かもしれない。