昨年1月、ソウルで営まれた重光氏の葬儀
家族を捨てた「両班の長男」
辛格浩は1922年に韓国南東部、蔚山の貧しい農家に十人兄弟の長男として生まれた。
実弟で、辛家の四男の宣浩(85)が振り返る。
「両班(特権的な身分の官僚)の出だと聞かされていましたが、田舎の両班ですから貧しかったです。父はまったく仕事をせず、いつも麻の白い服を着て、長いキセルをくわえていた。子供が騒いだらそれで頭を叩くのです。働き者の母が家族を支えていました」
辛は地元の農業学校を卒業後、種羊場で働き始めた。そして17歳で近隣で一番の富農の娘と結婚するが、翌1941年、彼は身重の妻や両親に何も告げることなく、忽然と姿を消す。釜山から関釜連絡船に乗り、日本に渡ったのだ。事情を知るロッテの元役員が解説する。
「重光さんがいた種羊場には獣医出身の日本人場長がいました。その場長は礼儀正しく頭もいい重光さんのことを高く評価し、『彼をこのまま農場の作業員にしておくのは惜しい』と言って、日本行きの手配をしてくれたそうです」
重光は後年になっても当時の詳しい経緯を語ろうとはせず、「あの頃は役場の仕事を手伝うか、郵便局か、バスの運転手くらいしか仕事がなかった」と話すのみだったという。
長男が突然失踪した辛家は騒然となった。前出の宣浩が述懐する。
「まだ幼かった私にも、大変なことが起こったと分かりました。家族が亡くなったかのような重い雰囲気が漂い、父は警察に捜索願を出した」
出奔時の所持金は、給料の約2か月分の83円だったという。だが、その詳細は本人が語るたびに変節し、所持金が120円になることもあれば、時には14歳で家を出たと話すこともあった。彼にとって若き日の決断は、誇らしい思い出であると同時に、忘れ去りたい“原風景”だったのかもしれない。
下関で下船し、初めて日本に足を踏み入れた。そこで特高警察の洗礼を受けた。彼は後年、知人に「自分の態度が警察の癇に障ったらしく、ひどく殴られた」と打ち明けている。差別の対象である韓国人としての“苦悩”の始まり。彼はこの日を境に、“辛格浩”から創氏改名による通称名“重光武雄”として生きる道を選んだとされる。ロッテOBが語る。
「東京に辿り着いた重光は、牛乳配達や工場の雑役、トラックの荷の積み下ろしなど様々なアルバイトを経験したそうです。昼間は働きながら、夜は早稲田高等工学校の応用化学科で学び、苦学して卒業したとされています」
ロッテを設立するのは渡日からわずか7年後の1948年。登記簿上の住所は杉並区荻窪で、資本金は100万円だった。公務員の初任給が約3000円の時代、100万円は宝くじの特等賞金と同額だ。