終戦後に手にした「100万円」
草創期のロッテに囁かれていた謎の一つが、この100万円の創業資金の出所である。重光はいかにしてこれほどの金を手にしたのか。
その転機は1944年に訪れた。重光はアルバイト先の質屋で60代の“花光”と名乗る老人と出会う。その後の人生を決定付ける恩人との邂逅だった。
「その老人が日頃の重光の熱心な働きぶりを見て、『資金を出すから旋盤用の切削油を作る工場をやってみないか』と声を掛けたのです」(同前)
戦時下、軍用機などを作る軍需工場では、金属の切削加工に不可欠な切削油の需要が高まっていた。そこにビジネスチャンスを見出した花光は5万円という大金を重光に出したという。5万円は今の貨幣価値で億は下らない。20歳そこそこの学生に気前よく大金を出資すること自体、にわかには信じられない話だ。
「重光の成功譚としてたびたび語られる逸話です。重光はそのカネを元手に大田区大森で工場を始める。しかし、空襲で全焼してしまうのです」(同前)
再起を期した重光は八王子に拠点を移す。ここで過ごした約1年半が重光の人生の岐路となった。
かつて八王子で洋品店を経営していた父親が、重光と深く関わっていた小島恒男(79)が語る。
「田園調布で洋品店も営んでいた花光さんと私の父は問屋仲間で友人でした。花光さんが疎開するにあたり、引っ越し荷物を置いたのが八王子の農家の蔵。重光さんは門番も兼ねて、そこで暮らすようになったのです」
花光はビジネスパートナーでもあった当時30代の小島の父に「優秀な男だ」と重光を紹介。切削油の事業は、八王子の染物屋の工場を借りて継続した。
「実務を担った父も出資者の一人だったようです。無口な印象だった重光さんから身の上話を聞き、父は『彼は絶対に成功する。成功しない限り、韓国には帰ることもないから大丈夫だ』と話していたそうです」(同前)
重光には知恵と勤勉さがあった。ある時、上着が盗まれ、彼がいつになく落胆していたことがあったという。
「その上着には、重光さんが学んできた応用化学の知識が書き込まれた手帳が入っていた。彼は上着よりも、手帳を失ったことをひどく残念がっていたそうです」(同前)
重光らが作った切削油は立川飛行場などに納品され、順調な滑り出しをみせた。だが、軌道に乗りかかった矢先に八王子を大規模な空襲が襲う。そして約2週間後、日本は終戦を迎える。
工場は全焼、重光は無一文どころか、多額の借金を抱えたまま終戦の玉音放送を聞いたと伝えられている。ただ、小島によると事実は少し違うという。
「工場は全焼してはいなかったはずです。父たちは切削油の原材料を大量に仕入れていて、それは手付かずで残っていたのです。重光さんはその在庫を使って石鹸を手作りするようになりました。釜で炊いた液状の石鹸を花光さんの持っていたタンスの引き出しに流し込んで固める。それを切り分けて闇市で売ると飛ぶように売れたのです」
重光の作る石鹸は「よく落ちる」と闇市で評判だったという。
小島の父親はこの頃、体調を崩し、終戦の年の12月に39歳で急逝。残された重光はその正念場で、反転攻勢に出た。そして終戦からわずか半年で出資金を全て返済する離れ業をやってのけた。
1946年2月。時の政府は終戦直後の未曾有のインフレの対抗策として「新円切り替え」と「預金封鎖」を断行、通貨の流通量を制限しにかかった。しかし、重光は旧円が新円に切り替わる、わずか数日前に借金をまとめて完済。運を味方につけた彼は、儲けた旧円が紙くずになるロスを最小限に抑える絶妙のタイミングで過去を清算したのだ。
その3か月後、重光は荻窪に事業拠点を移して石鹸を軸に化粧品も扱うようになった。そしてロッテの前身となる「ひかり特殊化学研究所」を設立。彼が次に目をつけたのは、進駐軍が持ち込んだチューインガムだった。
「苦学していた時代に進駐軍がくれたガムを剃刀で均等に分け、それを綺麗に包装し直して高田馬場で売っていたことがあったそうです。化学を学んだ彼は、ガムの作り方を覚えて改良を加えていったのです」(重光の知人)
高品質のガムは評判を呼び、重光は20代半ばにしてロッテの創業資金となる巨万の富を手にするのだ。