帰国後、生まれ育った兵庫県西宮市を離れて東京に移り、メジャーデビュー。だが、思うようには売れず、生活のためにアルバイトに明け暮れる日々が続いていた。
当時の親子関係について、駿河は雑誌『ハルメク』(2016年11月号)のインタビューでこう答えている。
《おかんに比べると親父は甘やかすところがあって、一度「これ持っとけ」と5万円をくれました。それはそれでありがたいと思いつつ、この5万円を稼ぐのにおれは8日もかかるんや、これは親父が自分の道で一所懸命稼いだ金なんや、としみじみ感じていました》
30才で俳優に転向して勝負に出たものの、出演依頼のあったバラエティー番組は、いずれも“鶴瓶の息子”としてのオファーだったため、断っていたという。
芸能界での、昔よりいっそう“鶴瓶の息子”を意識する毎日に、駿河は「一生背負うことになるなら、自分から認めてしまえばいい」と考えるようになった。そこからの俳優生活は順風満帆。多くの有名作品への出演が叶い、ドラマ以外にCMなどでも親子共演を果たしている。
「この裁判を2年以上も父親に秘密にしていたのは、大好きで尊敬する父に迷惑を掛けたくないから。鶴瓶の息子を背負う覚悟を決めたからこそ、不祥事には敏感になっています」(前出・知人)
事故現場ともなった自宅前で駿河本人に話を聞いた。冒頭のように語った後、「裁判については相手がいることなので何も話せないんです。申し訳ありません」と頭を下げるのだった。接触事故で訴訟が長期化するケースは稀だが、事故の“傷痕”が双方ともに少しでも浅ければいいのだが。
※女性セブン2021年3月11日号