理解されなかった「海上保険」の事業
幕末から明治においては「荷為替」という決済システムがとられており、米が為替の役割を果たしていた。そのため、米を積んだ船が事故に遭えば、仲介業者や金融業者は大きな損害をこうむることになる。
安心して取引するためには、保険制度が必要であり、事業を興せば必ずニーズがあると渋沢は考えた。だが、華族たちはどうもピンとこなかったようだ。渋沢は、こんな疑問をぶつけられることになる。
「『危険なことはするな』と一方でいっておきながら、『その危険を保険する保険会社を作れ」というのは、これくらい矛盾した話はないじゃないか」
こういわれてしまうと、なかなか保険事業の説明というのは難しいものである。何も華族たちの理解力が乏しいわけではない。教育者の福沢諭吉も、渋沢から熱弁されたが「結局、渋沢は利己主義から主張するのである」と取り合わなかった。
渋沢とともに海上保険会社を立ち上げることになる岩崎弥太郎ですら、当初は懐疑的だったらしい。こんなふうに言われたと、渋沢はのちに回想している。
「どうも保険事業をはじめてみたところで、資本を出す人もなかろうし、また保険を荷物につける人も十分にあるか疑う。自分の考えでは時期尚早である」