第一次大戦で保険ニーズが高まった
華族たちからしても、よくわからない事業に出資するわけにはいかないから、どうしても慎重になる。それでも必ず成功する自信があった渋沢は、「多くの人が保険に入りたい」と思ってもらえれば成り立つ事業であることを、こんな言い回しで説明した。
「多数が被保険者になるかならないかが問題である。もしそれが少ないと、危険がないとはいえない。それゆえ力ある人でなければ、ここに資金を出すわけにはいかない。保険業は危険がないわけにはいかないが、新しい事業であるから将来大いに有望である」
丁寧な説明を重ねながら、最もリスクの少ないプランを渋沢は提示。納得した華族たちからの出資を得ることに成功した。
1879(明治12)年に資本金60万円をもって東京海上保険社を設立。株主には岩崎弥太郎をはじめ、三菱関係者や華族団が加わったほか、安田善次郎や大倉喜八郎などの財界人も名を連ねた。香港や上海、そして、ロンドン、パリ、ニューヨークと支店を作って順調に業績を伸ばしていく。
第一次世界大戦が起きると、海上保険に対する需要はさらに高まることになった。1918(大正7)年には、東京海上火災保険と社名を変更して、現在に至っている。
ちなみに、渋沢の保険事業にポジティブな反応をした貴重な一人が、大隈重信である。実現にいたっては、大隈のバックアップも心強かったことだろう。
埼玉県・深谷市にある渋沢栄一像(時事通信フォト)