松本が小6の1998年に采配を振る父の勇姿を甲子園のスタンドから見ている。
「鮮明に覚えています。1回戦の沖縄水産は新垣渚(元・ソフトバンク、ヤクルト)さんが投げていたのですが、埼玉栄が勝って。オヤジと一緒のチームになれば、甲子園で活躍できるんじゃないかと思いました」
父が監督として指揮を執る千葉経大付属に入学したい意向を伝えると、「他の選手と同じぐらいの力、少し上ぐらいの力だったらおまえは使わない」と告げられた。松本もその覚悟だった。「4番・投手」として3年夏に甲子園に出場し、3回戦でダルビッシュ有(現・パドレス)擁する東北高を延長戦の末に撃破。快進撃でベスト4に進出した。
「オヤジは厳しかったですよ。でも練習は効率重視で、決して根性だけの野球じゃない。あとは選手との対話を重視していた。色々な選手とコミュニケーションを取っていましていたね。3年間終わった後は、『おつかれさんだったな、よくやった。体がボロボロだろ』と声をかけられました。短い言葉だけどそれだけで十分でした」
内川聖一から学んだ野球の奥深さ
松本はドラフト1位で横浜(現・DeNA)に入団し、レギュラーはつかめなかった。だが、数字だけでは測れない。大きな糧になる9年間だった。
プロ野球の世界は巧いだけではレギュラーをつかめない。心身ともに「強い」選手でなければ試合に出続けられない。身近なお手本が同学年のチームメート・石川雄洋だった。
「あいつは誰よりも練習していた。僕はあそこまで追い込めなかった。技術は当然大事ですが、体力も重要なんです。精神的にも強かった。僕よりも苦しい思いをしていたと思うけど、そこから何度もはい上がる。ここぞの場面に強くて周りの選手からも信頼されていました。覚えているのは、ナイターが終わった時に、『嫁さん家にいるの? 飯食べに行っていい?』っていきなり聞かれて(笑)。でも、こういう人懐っこいところが好かれるんですよ。僕がDeNAを辞める時もネクタイくれて。あの時は感動しましたね。色がド派手なオレンジだったのでどこでつけるんだろうって思いましたけど(笑)……心遣いがうれしいですよね」
本職は外野手だが、若手の台頭もありプロ6年目の2014年には一塁守備も経験した。首脳陣に最初に打診された時は断わったが、2回目に打診を受けた時に「やらなければいけない立場なんだ」と気づかされた。未経験の一塁は外野と見える景色が違った。サインプレーを覚えなければいけないし、左打者の強烈な打球が飛んでくる。だが、得られたものは大きかった。ピンチの時に投手がどういう仕草をしているのも間近で見られる。「マウンドに行って声をかけても会話がかみ合わない投手がいれば、余裕で受け答えする投手もいて。外野を守っただけではわからなかった。一塁を経験して本当に良かったです」と振り返る。
横浜時代のチームメートだった内川聖一(現・ヤクルト)とは毎年自主トレを行なった。そこで得た野球理論も大きな財産だ。