脚本家の坂元裕二とは3度目のタッグ(時事通信フォト)
で、いったいこのドラマって何を描いているの? という視聴者の問いに対する一つの答が、第7話で突如登場した謎の男X(オダギリジョー)によって示されました。
「人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も哀しい結末も、やり残したものも無い。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです」
そう、このドラマは「その人がどんな人か」という人間を浮かび上がらせる装置・仕掛けそのものでしょう。会話の仕掛けによって人が浮かび上がってくる。人と人との関係があぶり出されてくる。人は時に奇妙で滑稽で寂しく、時に希望に溢れている。
例えば、とわ子の幼なじみで親友のかもめ(市川実日子)が急死した第6話も、大声で叫んだり泣いたりするシーンは皆無。しかし、とわ子がかごめの死を心の中でぐるぐると想起し続けていたり、かごめのイメージを自分の中に保ち続けていることが、謎の男Xとの対話から段々に見えてきます。
「あの人ってどんな人なのか、私にとって何なのか」という問いはとても文学的です。
言葉の多さもまた、このドラマの特徴であり見所でしょう。狭い空間に人が集まり、激しくやりとりする会話劇の要素が色濃い。一般的なドラマと違うのは、過剰な言葉の応酬にある。言葉に反応する役者と映像とが組み合わさった、いわば「見る小説」「見る純文学」のようです。
純文学とは常に既存の形式を揺さぶったり壊していくものですが、このドラマも既存のドラマの枠を破っているように映る。わかりやすいストーリー主体のドラマとひと味違う「非ドラマ」。余人……いや、「余ドラマをもって代えがたい」独創性はそのあたりにありそう。
人間について発見する装置に、ドラマがなりうるということを示してくれた。大人が楽しむ新しい娯楽の領域が、今拓かれたように感じます。