「自分の家族さえよければ」という考えは果たして極端か
住民のひとりが、「横領犯の写真を見たけど、悪い人には見えなかった」と言うように、昭子と住民たちを隔てる壁は高くない。住宅地に暮らす人々の中には、会社でパワハラに遭い、少女誘拐を企てている若い男や、わが子のゆくえを心配するあまり倉庫に幽閉しようとする夫婦、小学生の娘をなかば育児放棄している母親もいる。
逃亡犯を見張る、という共通の目的が生まれたことで、住民のあいだには、それまではなかったささやかな交流が生まれる。ちょっとした言葉や食べもののやりとりが、本人も無自覚なまま、結果的に誰かを救うのが面白い。
たとえば小学生を誘拐しようとしていた大柳という青年は、部屋に貼ってあるアニメ絵の少女のポスターの着物を、隣の笠原家のおばあさんから素敵だと褒められたことが契機になって犯罪をあきらめる。
「それまで、自分の好きなアニメ絵の女の子を自分の都合で一方的に萌えるものとしてしか見ていなかったのに、そういう見方があったのか、と気づかされる。彼は世の中から搾取されていると思っていて、だから自分も搾取してやると誘拐を企てるんですけど、おばあさんのひとことで、自分が定義しようとしていた世界の外側があることを知るんです」
なにげないやりとりの中に、人生を大きく変える瞬間があったわけだが、啓示を与えた側は、そのことにまったく気づかない。無意識の礼儀正しさが、別の誰かによい影響を与えたりもするが、与えた人自身は自分の家族にはうとまれていたりもして、見る角度によってぜんぜん見え方が違う。
10世帯の中で異質なのが、三軒ぶんをひとつにした大きな家の長谷川家だ。カーテンや雨戸を閉めきって外に光を漏らさない、自分の家のゴミをよその敷地の前に置くなど、独特の生活様式で異彩を放つ。
「自分の家族さえよければっていうのは、極端なようですけど、長谷川家のおばあさんみたいな人は実は多くて、たいていの人はそうなんじゃないかと私は思います。誰かを踏みつけにして傷つけようと、自分の家族さえ繁栄していればいいと頑なに信じている。でも、だからこそ、外から来るものにおびえる気持ちも持っているんです」
本の最初のページに、住宅地の簡単な見取り図とそれぞれの家の家族構成が載っている。初めのうちは、たびたび見取り図に戻って何家の話か確認していたのが、一人ひとりが動き出し、それぞれのあいだでやりとりが始まるのにしたがって、いつのまにか見取り図が不要になっていることに気づく。
「書いてて、『つまらない住宅地』のことを好きになったりはしませんでしたけど(笑い)、10世帯あれば、10世帯なりの世界があって、家族の中でも一人ひとりが違っていたりする。ものの見方はひとつじゃないし、世界は自分が考えているのと違う姿をしているかもしれない。長谷川家のおばあさんは、そういうことが絶対に受け入れられなかった人で、だから彼女がつくりあげたあの家はすごくいびつで、孫娘の千里はそのことに気づいた。
家族の息苦しさを救うのは、家族以外だけでもないし、家族だけでもないんですね。ひとりの人間の中をいろんなものが通っていって、知らず知らずその人が変わる、そういうことを書いた小説です」
【プロフィール】
津村記久子(つむら・きくこ)/1978年大阪府生まれ。2005年「マンイーター」(改題『君は永遠にそいつらより若い』)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2019年『ディス・イズ・ザ・デイ』でサッカー本大賞など受賞歴多数。近著に『サキの忘れ物』など。
取材・構成/佐久間文子
※女性セブン2021年7月1・8日号