考えてみれば、よくあの師匠の下で務まったと思うけど、やっぱり弟子入りする前に付き人を1年近くやっていたのは大きかった。こんな理不尽はないと思うこともあったけど、弟子にとって師匠は理不尽でもいいの。今はパワハラだモラハラだと言われちゃうけど、本当は他の人に迷惑かけなければいい。落語のような縦社会では、訴えるような奴を弟子に取っちゃダメなんです(笑)。
私にはよく怒鳴る師匠だったけど、それこそインタビューを受けたりする時は丁寧によくしゃべってたなあ。記者さんが職業遍歴について質問してて、「大型二種免許をお持ちなんですよね」と聞かれて、「私はダンプを運転してましたから。飯田橋の現場で、来たトラックをバックで工事現場に入れるんです。そこは公道じゃないので無免許でいいんです」なんて答えてる。それでなんで免許取れたかというと、「鮫洲の試験場で試験に失敗して、試験官に“もういっぺんやらせてください。私はバックのほうがうまいんですよ”と言ったら、“ああ、もういい!”と合格のハンコを押してくれたんです」なんて言う。そんな話をいつも準備していましたね。
そんな師匠が亡くなった時(2009年10月)は、「博多・天神落語まつり」で福岡にいるところに連絡が入ってね。ご遺族にも「悪いけど戻れません」と言いました。戻ったらと言う人もいたけど、戻って生き返るなら急いで戻るけど、死んじゃったんだから、むしろ戻ったら師匠は怒るよ。ちょうど主だった落語家が福岡に来ていたからテレビが取材に来て、後ろに落語まつりのポスターが貼ってあるから大宣伝になっちゃった(笑)。そのあとは、私のスケジュールの空きが通夜から本葬までピタっとはまってね。それもご縁なのかなと思ったよ。人の縁も芸も、どこかでつながるんだよね。