千佐子は最初の夫である矢野正一さん(仮名)と1969年10月に結婚すると、実家のある福岡県北九州市を離れ、大阪府貝塚市に移り住んで2児を産んでいた。同所で印刷会社を立ち上げた正一さんは、事業が傾いたことで借金を重ね、1994年9月に54歳で亡くなっている。体調を崩して入院を重ねるなか、退院して自宅に帰ってきたタイミングでの死だった。そのとき千佐子は47歳である。以来、彼女は結婚相談所を通じて出会った男性と交際を繰り返し、相手の男性が次々と亡くなっていた。なお、裁判でも青酸化合物の入手先は特定されなかったが、千佐子は公判中の被告人質問で、印刷会社に出入りする業者から「プリントをミスした際に消すための薬品」として貰ったとの証言をしている。
「旦那は(殺)してない。私、これまでたくさんの人と別れたりしてきたやろ。もう誰がとか憶えてません」
「なら次の人は? ほら、大阪市の××(地名)に住んでた人……」
「え、誰やった?」
「千佐子さんに××競技場のそばのマンションを買ってくれた人がいたでしょ」
「そんなんもう憶えてへんわ」
千佐子の口から、元交際相手の名前が出ることはなかった。それは以前の面会時でもそうで、こちらが相手の住む地名や職業、その他の特徴を挙げてやっと、「ああ、あの人ね」とはなるが、相手の名前が出てくることは稀なのである。そこに恋愛感情があったとは到底思えない対応だった。
筧千佐子という名前で世間に知られる彼女だが、それはあくまでも逮捕時に、被害者である筧さんという男性と入籍していたから、その苗字が使われているにすぎない。彼女自身にその苗字への思い入れはないし、筧さんの親族にしてみれば、不本意なかたちで苗字が使われ、迷惑千万といったところであろう。
「そういえばね、先生。私、殺される前に臓器提供をしたいんよね。私、この通り健康やからね。弁護士にもそう言ってるんよ」
これもかつての面会時に、千佐子が頻繁に口にしていたことだ。そういう点でいえば、彼女の話には一貫性がある。私はじつのところ、長い拘置所生活によって彼女の認知症が進行しているのではないかと危惧していた。だが、この場でやり取りする限りでは、3年前からの変化は見受けられない。千佐子は私の顔をまじまじと見つめると言った。
「こうやって見ると先生若いわあ。帽子被ってるから頭がどうなってるのかはわからんけど、肌つやもええしね。体悪くないやろ」