「虹の松原を通る国道は暗く、路面が濡れていたので、目をこらすようにいつも以上にゆっくりと運転していました。すると突然、ドーン!! という衝撃が車の上に落ちてきたんです。何が起こったかわからず、思わずハンドルにしがみつきました。
われに返って助手席に目をやり、隣でぐったりしている辿皇に声をかけても返事がない。暗くてよく見えなかったのですが、体の上に松の木が乗っかっているように見えました。でも実際は、息子の体から車のシートまで松の太い枝が貫通していたのです」
運転席の後ろに乗っていた辿皇くんの姉は、「怖い。車の外に出よう」と言いながら、「お母さんがしっかりしなくてどうするの」と気を落ち着かせてくれた。
介護の仕事をしていたこともある明日香さんは、辿皇くんの脈をとろうとしたが、脈をうってはいなかった。やがて救急車が到着したが、救助にあたった医師から「治療目的の搬送ではないと思ってください」と告げられ、その真意も理解した。
病院に到着してからも、辿皇くんに突き刺さった松の枝を抜くのに時間がかかり、明日香さんが辿皇くんに会えたのは数時間もたった後だった。
愛する息子の命を奪われ、深い悲しみに突き落とされた母親・明日香さん。生きる希望さえ見失ってしまいそうなとき、さらに追い打ちをかけるような出来事が次々と襲った。
自動車運転処罰法違反(過失運転致死)の疑いで明日香さんが佐賀地検に書類送検されたのだ。突然の事故で息子を失った母親であるのに、その事故は自分の運転のせいとされてしまう。結局は、証拠不十分で不起訴処分となり、運転免許取消も150日間の免許停止処分に軽減されたものの、明日香さんの受けた苦痛ははかりしれない。
さらに、心ない人々からの誹謗中傷。ネット上では、運転していた母親が飲酒運転をしていたとか、蛇行運転をしていたとか、事実と異なる噂が流布し、地元では「保険金たくさんもらったから家を建てたんでしょ」とまで言う人もいた。
松原では全国唯一の特別名勝「虹の松原」で起こった事故のため、さらに事態を複雑にした。松原の所有者は国。道路管理者は佐賀県。文化財行政を担うのは唐津市教育委員会。権限が分かれ、それぞれが押し付け合うような状態が続いた。
樹木医の調査により、虹の松原で同様に倒木の危険があると判断された松の木は257本。しかし、「地元のシンボルを残したい」という市民の声もあがる中、伐採されたのは42本だけ。「二度と同じような事故が起こらないように、危険性がある木は全て切ってほしい」と明日香さんは訴えたものの、なかなか事態は進展しなかった。