前出の桝井氏が担当した最終回は、現役高校生を100人集めての討論会だった。この時の光景が、一生忘れられないという。
「それまで理屈っぽい話をしていたのに、急に一人が立ち上がって『なぜ俺がここにいるのか。それは寂しいからだ!』と叫んだんです。すると『俺もだ!』『俺も寂しい!』と次々に声を上げ始めた。それからは、みんなが腹を割って話し合うようになりました。みんなの心が一つになった瞬間で、最高の感動でした」
深夜放送を通して若者は社会と向き合い、時代に抗った。
彼らと寄り添う数少ない存在だったからこそ、深夜放送は今も青春の1コマとして、鮮烈に当時の若者の胸に刻み込まれている。
高校生の8割が耳を傾け、5万通のハガキが届いた
1979年秋、都内の高校の文化祭で深夜ラジオに関するアンケートを取ると、300人中239人、じつに79.7%が「聞いたことがある」と回答した。当時、深夜放送は三つ巴の戦国時代だった。
TBS『パックインミュージック』は金曜の“ナッチャココンビ”野沢那智、白石冬美が長年にわたって同時間帯の聴取率1位を独走、ニッポン放送『オールナイトニッポン』では土曜担当でお色気ネタ満載の笑福亭鶴光の元に毎週5万通ものハガキが届いていた。1981年にビートたけしが金曜担当になると、深夜の聴取率1%前後の時代に最高4.8%を獲得し、放送終了後には弟子入り志願者が殺到した。
文化放送は『セイ!ヤング』に代わり、1981年10月から『ミスDJリクエストパレード』を放送し、川島なお美や千倉真理など女子大生スターが誕生した。ミスDJコンテストを開催すると、2000人近い応募者が集まった。
取材・文/小野雅彦、岡野誠
※週刊ポスト2022年1月1・7日号