東条英機・陸軍大将(時事通信フォト)
戦後80年となった2025年は新聞・テレビで多くのドキュメンタリーや戦争体験者の証言、特集記事が組まれ、あの戦争を振り返った。そもそも日本にはどんな軍人がいて、どう戦い、この国に何を残したのか。歴史学者、戦史研究者、軍事評論家やジャーナリスト、自衛隊の将官経験者など16人に取材し、旧日本軍(1871~1945年)の「最高の軍人」「最低の軍人」を評価してもらってランキングにした。後編では「最低の軍人」ランキングを紹介する。【前後編の後編】
【選者一覧(敬称略、五十音順):家村和幸(兵法研究家)、石津朋之(防衛省防衛研究所戦史研究センター・主任研究官)、井上和彦(軍事ジャーナリスト)、井上寿一(政治・歴史学者)、潮匡人(軍事ジャーナリスト)、菊池雅之(軍事フォトジャーナリスト)、清谷信一(軍事ジャーナリスト)、黒井文太郎(軍事ジャーナリスト)、倉山満(憲政史研究家)、纐纈厚(歴史学者)、将口泰浩(ノンフィクションライター)、田原総一朗(ジャーナリスト)、福井雄三(東京国際大学特命教授)、福山隆(元陸将)、矢野義昭(軍事アナリスト)、山口昇(元陸将)】
悪質な現場無視の参謀
「最悪の軍人とは、国家破滅への道を推し進めてしまった軍人たち。その軌跡を追うと日本敗北の理由が透けて見えます」
そう指摘するのは歴史学者の纐纈厚・山口大学名誉教授だ。選者の多くも同様の視点で選考し、上位に票が集まった。
ワースト1位は第15軍司令官の牟田口廉也・陸軍中将。兵站の困難さを承知しながら無謀なインパール作戦を強行し、戦死者より補給不足による飢餓やマラリアなどによる餓死や病死が多く、撤退路は「白骨街道」と呼ばれた。参加兵力約10万人のうち戦死者、餓死者、病死者が合わせて死者3万~7万人とされる。
牟田口は部下の部隊より先に撤退し、軍司令官を解任され東京に戻った。
「功名心のため、意見具申を聞かずに作戦を推し進め、多大な犠牲者を出した。戦後は、自らの正当化に終始し、責任を全く認めなかった」(防衛省防衛研究所の石津朋之・戦史研究センター・主任研究官)
「(日中戦争の発端となった)盧溝橋事件の際は連隊長だった牟田口の攻撃命令が戦火拡大のきっかけに。挽回する功名心で補給もできないインパール作戦を行なった」(山口昇・元陸将)
多くの識者が「最低の軍人」に牟田口を挙げた。
ワースト2位は東条英機・陸軍大将。日米開戦当時の首相であり、国力に合わない無謀な戦線拡大で敗戦へと突き進んだ。
「東条は軍官僚としては優秀だったが、一軍を指揮できる軍人ではなかった。陸軍大臣時代に出した『戦陣訓』に〈生きて虜囚の辱めを受けず〉との一節があり、精神論で軍人に敵の捕虜になるのを禁じて玉砕を強要する形になった」(山口氏)
「勝てないとわかっていたのに開戦を煽った。終戦時に切腹ではなくピストル自殺を図ったが、死にきれずに生きて虜囚となった」(ジャーナリスト・田原総一朗氏)
