この悲しい別れによって、二人の人生はうねり始める。
まず中島。彼女は自身のエッセイに「私はファザコンである」と書くほど父への愛が深かった。最愛の父を亡くしたときのことを、前田さんはこう話す。
「弟さんが医学部に進学していたこともあり、お父さんが亡くなってからは、中島さんが“自分が大黒柱にならなければいけない”と思ったのか、“プロとしてやっていかなくては”という気持ちが強くなったように思います。この頃から、本格的に東京に出て音楽を作っていこうという思いが、はたから見ても感じられるようになりました」
その後、中島は1977年に『わかれうた』で76万枚、1981年に『悪女』で83万枚を売り上げ、一時代を築く歌手になっていく。
他方、松山は相棒ともいえる竹田さんを亡くした悲しみに暮れ、「不安を抱いていた」と富澤さんは言う。
「千春は所属事務所もなく、竹田さんがマネジャーのようなこともしてくれていたので、『手足をもがれたような思いだった』と、その後に語っています。大都会・東京にひとりポツンと出ていかなくてはいけない。その不安は、耐え難いものだったようです」(富澤さん)
そんな松山に大きな仕事が舞い込む。若者に絶大な人気を誇るニッポン放送のラジオ番組『オールナイトニッポン』(水曜日第2部)のパーソナリティーに抜擢されたのだ。これをきっかけに知名度は全国区となり、1978年には1部に昇格。同年発表した『季節の中で』が、当時26才だった三浦友和(69才)が出演する『グリコアーモンドチョコレート』のCM曲に起用され、その人気が不動のものとなっていく。
この『オールナイトニッポン』は、中島にとっても大きな転換点となっている。
(第3回につづく)
【プロフィール】
中島みゆき(なかじま・みゆき)/1952年2月23日生まれ、北海道札幌市出身。本名・中島美雪。1975年『アザミ嬢のララバイ』でデビュー。同年、『時代』で世界歌謡祭グランプリ受賞。現在までに46枚のシングル、43枚のオリジナルアルバムを発表している。テレビや映画などの主題歌のほか、ほかのアーティストへの楽曲提供も行っている。
松山千春(まつやま・ちはる)/1955年12月16日生まれ、北海道足寄町出身。1977年『旅立ち』でデビュー。1982年の5万人コンサート『大いなる愛よ夢よ1982』が大きな話題を呼ぶ。昨年10月27日に通算82枚目のシングル『敢然・漠然・茫然』をリリース。今年、デビュー45周年を迎えた。北海道在住。
音楽評論家・富澤一誠さん/1951年、長野県出身。著書に『松山千春─さすらいの青春』(旺文社)、『ユーミン・陽水からみゆきまで〜時代を変えたフォーク・ニューミュージックのカリスマたち〜』(廣済堂新書)があり、中島、松山の取材を重ねている。
作編曲家・船山基紀さん/1951年、東京都出身。1974年から編曲活動を始め、中島みゆきの『アザミ嬢のララバイ』や『悪女』、沢田研二の『勝手にしやがれ』など多くのヒット曲を手がける。4枚組CDボックス『船山基紀サウンド・ストーリー時代のイントロダクション』限定発売中。
喫茶店「ミルク」オーナー・前田重和さん/1947年、北海道出身。学生時代から中島みゆきと交流を持つ。札幌市で経営する喫茶店「ミルク」は中島の曲『ミルク32』のモデルといわれる。
芸能ジャーナリスト・渡邉裕二さん/1961年、静岡県出身。松山千春の自伝小説『足寄より』(扶桑社)を基に、ドラマやCD、映画、舞台などを企画、プロデュースした。
取材・文/廉屋友美乃 取材/北武司
※女性セブン2022年2月10日号