この大会で人生を大きく変える人物と出会う。それが、このとき審査員をしていた、北海道のラジオ局「STVラジオ」のディレクターの竹田健二さん(享年36)だ。彼らの出会いについて、芸能ジャーナリスト・渡邉裕二さんは次のように話す。
「竹田さんは、いち早く千春の才能を見出し、自分が担当するラジオ番組に起用。毎週2曲、新曲を作って紹介する『千春のひとりうた』というコーナーを持たせました。1年間で放送が48週あって、単純計算でも100曲近く作ることになります。だから、デビュー前にすでにアルバム何枚分にも相当する曲数を作っていて、その中に『大空と大地の中で』などがあったんです」
デビュー前に曲のストックがあるという点では、中島も同じだ。中島と大学時代のフォー期サークル仲間である、喫茶店「ミルク」オーナーの前田重和さんはこう話す。
「アマチュア時代、中島さんは200曲くらい作っていましたね。10枚目くらいまでのアルバムには、アマチュア時代に作った曲がけっこう、入っています」
デビュー前に自作の歌を発表する場があったことが、彼らの歌手としての土台となったのだろう。
北海道で大切な人との別れ、そして東京への旅立ち
それだけ曲ができればすぐにでも東京に進出しそうなものだが、二人は北海道にとどまり、自らの力を熟成させた。
「中島さんたちが出てきた1970年代半ばあたりは、ポップなニューミュージックの時代。ギターの弾き語りは時代遅れと言う人もいました。
ただ、それがかえってよかったんじゃないかと思います。というのも、あの時代はちょっとでも注目されるとすぐにデビューさせ、無理して曲を作らせ、すぐにツアーなどに出させるから、消耗して潰れていく人も多かった。特に千春の場合は、竹田さんの“北海道で力をつけさせてから全国区にしよう”という作戦が、功を奏したと思います」(前田さん)
中島は北海道を拠点にしながら、『アザミ嬢のララバイ』に続き、『時代』をリリース。この曲は当時の時点で、20万枚以上とヒットしている。
一方の松山は、ラジオ番組で人気に火がつき、一気に道内のスターとなり、コンサートを開けば2000人以上の観客を集めるようになる。
だが、二人は順調に歌手の道を進んだわけではない。
中島は、デビューした1975年に父が病に倒れ、52才の若さで亡くなってしまう。
松山も1977年の夏、悲しみに襲われる。二人三脚で歩んできた竹田さんが36才の若さでこの世を去ったのだ。心不全だった。